こっしぃ's コラム

Blue in blue(未来への羅針盤)

これは森の声さんの「ポラン通信」に乗せた最後のコラムです。「ポラン通信」自体もこの号で最後でした。書いたのは去年の8月。だからイメージが夏っぽいです。ブログに載せるのを単純に忘れていたのですが、とある友人からわたしの「少年時代の話」を聞きたいといわれ、思い出しました。「こっしぃ's コラム」を初めて読んでお気にめした方は「カテゴリー」欄をクリックしてみてください。他の文章がお読みになれます。


 私の目の前に青い裁縫箱がある。たくさんのすり傷がついた、古ぼけたプラスチックの裁縫箱だ。ウン十年前、小学校で裁縫箱を購入することになったとき、子どもたちに選択の余地はなかった。女の子はピンク、男の子は青、と決まっていたのである。私はそのピンクがいやだった。TVアニメ「ルパン三世」に心酔し、次元大介になりたいと思っていた私のお気に入りの服装は、カーキ色のボタンダウンにベルボトムジーンズ。次元大介にピンクの裁縫箱は似合わない。私は押しつけられた選択肢を頑として受け入れなかった。それで事態がどう進んだのか、残念ながらよく覚えていない。おそらく親が折れ、学校も仕方なく認めた、というところだろうか。確実なのは目の前に青い裁縫箱があることで、私はこの箱をみるたび、自分の意志を曲げなかった11歳の自分をほめたたえてやりたい気持ちになる。

とはいえ、こういう子どもは大人には歓迎されない。低学年の頃は授業中ほとんど発言しなかったし、高学年になっても「明るい、さわやかな、意欲がある」という言葉とは縁がなかった。(大嫌いな)読書感想文の題材に、選んではいけないとされていた「SF小説」をわざと選んで書いてみたり、(同じく大嫌いな)意見文を書かせれば「読書感想文を廃止しよう」という内容だったり…、とにかく機会さえあれば反抗していた。

「反抗の仕組み」をご存じだろうか。パターンはいくつかある。ひとつはAといわれたら、もう一つの選択肢Bを選ぶというものだ。ピンクといわれたら青を選んだ11歳の私のように。もうひとつはおなじくAといわれたら、Aでないことをするというものだ。「SF小説を選ぶな」といわれたら、「SF小説を選ぶ」のである。けれど、どちらの場合もAという最初の条件なしでは成り立たない。「反抗」とは一見自由な行為に見えるけれど、最初の条件に縛られているという意味では必ずしも自由ではない。けれど、育つ側からみればそれは必要な行為であり、親や教師の価値基準から自分の世界へ移っていくための強烈なひと蹴りに他ならない。反対に育てる側からみた場合、もし子どもに「反抗」されているのなら、それは喜ぶべきことだ。ひとつには、子どもはあなたを「蹴るに足る」基準として信頼しているということだし、ふたつには、その子は今自分の足で立とうとしているに違いないからだ。

問題はその「反抗」の先にある世界だ。プールで泳いでいるときのことを考えてほしいのだが、ここでもスタートは反動を利用する。壁を蹴ると、身体は思いのほか早く進む。けれど、壁を利用できるのは最初のひと蹴りだけだ。後は自分の力で泳いでいかなければならない。「どこへ行くか」という問題もある。現実のプールは泳ぐ方向が決まっていたり、線が引かれていたりする。一方、「現実」というプールには、いろいろな線が勝手気ままにひかれていたり、前は正しかったがいまは???という線もあったりして、たどっていくととんでもないことになったりする。それに「現実」というプールはすぐ「海」へとつながっている。線もない、方向を指示してくれる人もいない、もしかしたら危険もあるかもしれない、そんな「海」だ。そういう(ああ、もしかしたら危険きわまりない)「海」へ泳ぎだして行くであろうわが子に、あなたは何を準備してあげられるのだろうか。浮き輪? ライフジャケット? 酸素ボンベ? 羅針盤? それとも宝の地図? けれど、浮き輪やライフジャケットは浮かんでいるのにはいいけれど、泳ぐには邪魔だ。酸素ボンベは重すぎるし、羅針盤は狂ってしまうことがある。宝の地図だって、昔は確かにそこに埋まっていたかもしれないけど、いまはどうだかわからない。たとえあなたがそこで、お宝を見つけたことがあったとしてもだ。

たったひとつおすすめがある。それは映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」で海賊ジャック・スパロウが持っている羅針盤、北を指さないかわりに「持ち主の望んでいるものを指す」羅針盤で、しかもそれは身体の中に仕込むことができる。逆に言えば、それを持たずに「海」を泳ぐということは、かなり危険なことでもある。荒海に乗り出すことを恐れたり、ひとの泳ぐ方向ばかりを気にしたり、道を失い、誰かにしがみついて、もろともに沈んでしまったりすることだってある。

「仕込む」と書いたが、それは本来ひとりひとりに必ず備わっているものだと私は思う。だから「仕込む」というよりは「育てる」。もっというなら「育つのを邪魔しない」…。

だって、自分が何をしたいか迷っている赤ちゃんなんていないでしょう! 赤ん坊にはしたいことがある。それは確か。おっぱいを吸うことだったり、抱かれたいということだったり、その他どうしてもこれを握りたいとか、大人には理解できないことだったりするけど。

子どもの中に羅針盤があることを認めてしまえば、育児はずっと楽になる。たとえ最初は欲望のままに揺れる未熟なものだとしても、そのぶれにつきあっていくことで、子どもは成長する。そしてやがては自分ひとりで、その羅針盤を頼りに「海」へと乗り出していくはずだ。誤解させないように強調しておくと、羅針盤の「ぶれ」とつきあうということは、「子どもの好きにさせる」こととはずいぶん違う。

まずは受け手(親や教師)の「感度」と、それを「言葉にする力」が必要になってくる。身体に仕込まれているといっても、羅針盤は目に見えないし、子どもがそれを自覚するようになるのはずっと後だ。だから、その子の羅針盤がどこを指しているのかを、最初に感じてあげるのが受け手の役割だ。そして、大人がそれを感じ、言葉や行動でサポートすることによって、子どもは自分の羅針盤の向きを(思春期までかけて)徐々に理解していく。

また「want(欲求)」と「need(必然)」を区別することは重要だ。「~したい」にも二種類あって、「want」は後から目覚める。赤ちゃんはほとんど「need」で生きているので、ある意味、満たすのもたやすいし、速やかに満たしてあげる必要がある。けれども「want」はすべて満たす必要はなく、むしろその背後に潜む「need」を察知することによって、解消することが可能だ。たとえば、膝にすがりついてアメをねだってばかりいる子どもは、もしかしたら外で自由に遊びたいのかもしれない。「want」に振り回されないことは大切だ。もちろんそれを無視していいわけではないけれど…。

そして子どもの羅針盤が育っていく課程でおそらく一番肝心なのは、身近に自分の羅針盤を活用している大人がいることではないか、と私は思う。この羅針盤に従って人生を送っていると、ひとから奇異な目で見られることも結構ある。何しろ「北を指さない」ので、のぞき込んだとたん、ぎょっとされることも多いのだ。もちろん、自分の羅針盤の向きを自覚していれば、時には北を指すふりだってしていいと思う。でも(私に限らず)、自分の羅針盤を理解しているひとは本質的なところでぶれない。そういう大人が身近にいると、ぶれやすい羅針盤を持つ成長途中の人間は、安心して角度の違いをぶつけることができる(この場合、角度は違っていいし、違って当たり前だ)。

そう結局、チェックポイントは子どもではなく、大人の側にある。多くの場合、大人の「want」と「need」は複雑に絡み合っている。別にいつもそれを一致させることが可能だとも、いいとも思わない。むしろ、そのズレこそが「ものがたり」を生み出していく原動力だ。ただその乖離(かいり)や、ねじれに気づき、認めることができれば自分と他人の複雑さをもっと許せるようになるだろう。

 青い裁縫箱は、いま娘の海の手元にある。私の「反抗」の記念ともいえる青い箱は、遠い日にその「反抗」を許してくれた誰かの存在を暗示している。それを海に手渡すことによって、私は何かを未来に向けて放つ。これから泳ぎ出そうとするすべてのひとに。

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乳房をもった男(オンブレ・コン・ペチヨス)

うちの子どもたちは、そろいもそろって10月生まれだ。1番目の海も、2番目の森も10月。そしてその間に1.5番目がいる。拙著「魂にささげるダンス」である。奥付は[2001年10月15日]。日付も1日生まれの海と、29日生まれの森のほぼ真ん中。絵に描いたような偶然とはこのことだ。

元になる原稿を書き始めたのは、海がまだほんの赤ん坊だった頃だ。海はよく寝る赤ん坊で、原稿を書く時間をたっぷりと私にくれた。出産直前まで働いていたため、プレママ友達というものはなく、公園デビューもまだだったので、純粋な家事と育児をのぞくと他にやることもなかった。そのすきまをぬって、隠れていたものが一気に吹き出した。

アンナ・ハルプリンのタマルパ・インスティチュートで一年課程を修了した後、日本に戻ってきてその日の糧を稼ぐために働いた。その職場で運悪く(?)男に惚れ、結婚してしまった。おかげさまで今ではババつき、家つきの専業主婦である。誠に恋愛とは人を思わぬ境遇に落とし込むものだなあ、としみじみ思う。けれど吹き出さざるをえないものは、いずれ吹き出す。私としてはそれを破壊的なかたちで吹き出させたくなかった。で、書いた。一心不乱に書いた。姑の目も切り捨て、ときには海を泣かせても書いた。そして原稿は一応完成し、私の衝動はとりあえずの形となった。

だが人間、欲が出るものである。自分の原稿のできにちょっぴり感激していた私は、ふと出版してみようかと思い立った。といっても思っているだけでできるものではなく、昔勤めていた出版社はいささか毛色が違った。何しろこの国でのアンナ・ハルプリンの知名度はないに等しい。図書館で手当たり次第に探しても、彼女に触れている本は2,3冊しかなく、それもたいていは数行の記述で終わっていた。その中で「モダンダンスの歴史」は別格で、アンナにきちんと一節をさいていた。著者であるU氏の記述は、私の知っているアンナ像に最も近いように感じた。そこで私は思いきった手段をとった。ていねいな手紙をつけた原稿をU氏に送り、「目を通していただいて、もしそれが気に入ったら、どこか出版社を紹介してはいただけないか」と超ずうずうしいお願いをしたのである。返事が返ってきたときの驚きは忘れられない。流麗な文字で書かれたハガキに導かれて新宿まで会いに行き、当時改装したばかりの南口で迷子になったことも(笑)。はじめてお会いしたU氏は、手書き文字が作家の勲章だったよき時代そのもののような紳士で、未熟きわまりない私の原稿が本という形になるのに力を貸してくれると言った…。

私は幸運だった。その幸運はU氏という「人を育ててくれようとする男」にあったことにつきる。そしてこの本が出版されたことをきっかけに、私にもうひとつの重要な出会いが訪れる。

篠秀夫さんとの出会いは、仲正雄先生の講演会である。知り合いから仲先生の講演会を勧められ、そのチラシの内容に興味を持った私は、講演会を聞きに行くついでに自著を献本することを思いついた。そこで受付をしていた男の人に本を言づけた。講演会はおもしろかったが、その後で仲先生と話した記憶はない。そしてなぜか家に帰ってからも私が気になったのは、受付にいたひげを生やした男の人のことだった。その人の何かが私の感覚の網に触れたのだ。私はどうしてもその人に私の本を読んでもらいたくなった。言語化できるほどの理由はなかった。けれど次の瞬間、私はチラシに書かれていたその人の連絡先に電話をかけ「あなたに本をさしあげたくなりました。ご自宅にうかがってもよろしいでしょうか」と口走っていた。何かの強迫観念にとりつかれたとしか思えない振る舞いである。

私はそのとき、篠さんのやっていることを何ひとつ知らなかった。はじめてお邪魔したご自宅のアトリエは、雑多なものに満ちあふれた空間で、気持ちのよい「すきま感」があった。創造の芽はこういう空間を好むということを、私は体験として知っていた。日本にも、いいや茅ヶ崎にも、こんな風に自由に呼吸ができる空間があるんだなあ、ということにまず驚いた。そして篠さんは私の話を聞くやいなや「ワークショップをやるなら協力します」と夢のようなことをおっしゃったのだ。これがウソでない証拠に明けて翌年の4月、私の帰国後最初のワークショップが篠さんの主催する「しょうなん『育自の会』」を連絡先として行われたのである。本のていねいな感想もすぐにメールでいただいた。そしてその年の夏に、私は4才の海を連れてはじめて「賢治の楽校」に参加する。

その海もいまや11才。ということは篠さんとは足かけ七年のつきあいになる。私の方はまったくいい気なもので、自分が遊びたいゆえに「賢治の楽校」や「冒険クラブ」その他諸々に参加し、たいしたこともしていないのに勝手気ままに振る舞い、こんなエッセイまで連載させてもらっている。しかも、(わー、もし違っていたらごめんなさーい)どうやら篠さんは私のこんな振る舞いを喜んでいるようなのだ。

世の中には条件つきの好意が山のように転がっている。たとえば「私に逆らわなければ、あなたはいい子」とか「もし私の幻想につきあってくれたら、愛してあげる」とか「○○でありなさい。そうすれば友だちよ」のような好意である。多くの人はこのやり方の持つ、表面的なたやすさのため、実に気軽にこれを使う。

「いい子にしていれば、おやつをあげる」程度のセリフなら、私だって使ったことがないわけではない。けれど、こういう好意とはべつの、ある意味で対極に位置する好意も確かにあって、それはその人がその人らしくあればあるほど、うれしくなるような気持ちだ。身近なところでは一昔前のおじいちゃん、おばあちゃんや近所のおじさん、おばさんがいたずらをしている子どもを見るときの目線である。親として厳しくしなければいけない場面はたしかにある。しかし、それを取りなしてくれるような人が子育ての環境には必ずいたように思う。けれど近頃は、このようにほほえましく子どもを見まもる大人はめっきり減った。ましてや、「わがまま」ではないのだが「我が道」を通そうとする人間には、この国の人間関係はとても冷たい。

 だから、いまこの通信を手にとって読んでいるあなたは幸運だ。なぜならこの通信を出し続けてきた篠秀夫という人間は、間違いなく「人を育てる男」だからである。私が目指している「やまんばさん」が「野生の母」であることは先日ブログに書いた(「野生の母に」 参照)。そのときの引用した文章をもう一度繰り返すと

「小型の野生の母はあなたを導き、あなたが何かを成し遂げると誇らしさではちきれます。あなたの創造的、感覚的、精神的、知的生活が行き詰まるとはげしく批判します。そういう人たちの目的はあなたを助け、あなたの芸術を大事にし、あなたを野生の本能にもう一度結びつけることです。」「狼と駆ける女たち」(p154)

そういう「野生の母」の男性形としてあげられているのが、「乳房をもった男(オンブレ・コン・ペチヨス)」で、私から見た篠秀夫さんは、スバリ、そういう男の人である。ちなみに「こういう人たちはきわめて男性的であると同時にきわめて女性的なのです。」とこの著者は書いている。どうです。思い当たるでしょ? 

 もし子育てが、人生が思うようでないと感じたら、一度周りをじっくりと見渡してみるといい。あなたを様々な条件で縛っている人は誰だろう? また逆に、あなたが子どもや愛する人を無意識の、あるいは意識的な条件で、がんじがらめにしていないだろうか? そうだとしてもこの世には、無条件で支えてくれる人がきっといる。そしてその人のところに飛び込む直感という鍵のありかを知っているのは、あなただけなのだ。

[参考文献]「狼と駆ける女たち」クラリッサ・ピンコラ・エステス著(新潮社)1998

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Why a wolf runs(狼はなぜ走るのか)

4月発行の「ポラン通信」に載せていただいた文章です。この連載もついに12回目を迎えました。以前の文章が読みたい方は

カテゴリー「こっしぃ's コラム」

をご参照ください。

親は子どもを育てるけれど、子どもは親だけに育てられるとは限らない。子どものかたわらに立つ大人として、どういうあり方ができるのか、今回は私が育てられた経験から考えてみたいと思う。

① “間違った決断にも意味はある”の章

中学から高校へと進むとき、私はひとつの決断をした。15才にしてはおおきな決断だったと思う。なぜならそれは当時の常識と、親の期待というレールから外れるものだったからだ。30年以上も前の地方都市では、進路の選択は単純なものだった。市内にある4つの公立高校に成績順に割りふられるだけの話だ。4つの高校の性格もはっきりとしていた。すなわち、進学校、普通校、商業高校、工業高校で、私立に行くという可能性を考えなければ、迷う必要などほとんどなかった。

勉強しか特技がなかった私の場合、事態はさらに明白だった。けれど私としては不満があった。進学校にはやりたい部活がなかったのだ。中学時代、私が没頭したものはふたつあった。「マンガ」と「高校野球」で、中でも高校野球は夏の甲子園大会全試合の記録と感想をノートにしたためるくらい好きだった。要するに私は自分の性別もかえりみず、高校球児になりたかったのだ。当時、女子を受け入れる野球部はなかったが、球技としてはソフトボールがある。進学校にはソフトボール部はなく、その数年前まで女子校だった普通校にはあった。私は野球がやりたい一心で、その高校に進学した。

② “少女は果てしなく退屈する”の章

 問題は私がバーチャルな野球少女だったことだ。バーチャルなものを肉体化するには過程が伴う。この場合の過程とはランニング、腕立て伏せ、キャッチボール、シートノックなどだ。高校生活はそうして過ぎていき、肉体化の手応えはそれなりにあったものの、卒業後の進路を考える時期になって問題が発生した。自分の行くべき方向がわからなくなっていたのだ。成績は相変わらずよかったけれど、それだけをべたほめする一部の教師にも嫌気がさしていた。進学するという気風もそれほどない環境の中で、テストの点数だけをもてあまし、私はただひたすら退屈していた。人生をすっかり投げていたのだ、と思う。ティーンエイジャーの絶望を甘く見てはいけない。それは自己と周囲を滅ぼしかねないくらい、暗く、深い。

③ “I先生はほがらかに笑う”の章

 そんな高校生活に、春風のように舞い込んできたのがI先生だった。彼女は学校を出たばかりの新人教師で、担当は国語だった。顔は古代風の美人で、すべてのパーツが丸く、はっきりとしていた。彼女は熱心に、そして楽しそうに「仕事」をした。楽しそうに働いている大人を見るのは久しぶりだったので、それだけで私は充分好きになった。

今でも印象に残っているエピソードは「漢詩」を訳すときに標準語ではなく、日頃しゃべっている方言(三条弁)で書いて提出したときのことだ。私としてはたぶんに挑戦的な意味合いが込められていた。小生意気なティーンエイジャーが、見込みのありそうな大人を試すときに使うあの手口である。結果としておとがめはなく、それどころか彼女はおもしろがって、それを授業で取り上げさえした。これは思いもよらない反応だった。私の思いつきを認めてくれるその素直さに感嘆さえした。点数をほめられたときには感じなかった満足感が、私をよりいっそう彼女に近づけた。

④ “狼は紙面を借りて忍びよる”の章

 自分の能力を未来と結びつけられずにいた私にも、ひとつの転機が訪れた。最初、それは書籍の新聞広告という形をとっていた。広告にも様々な大きさがあるが、一面によく載っている小さい広告は「三八つ(さんやつ)」といわれる。正確には「3段の8分の1」というらしい(新聞の天地は15段と決まっていて、このうちの3段を使い、左右を八つに分けたうちの一つという意味だ)。これより少し大きいのが「三六つ(さんむつ)」。横幅全部を使っているのが「全5段」。本の広告としては最大の大きさだろう。

このとき私の目をひいた広告は、紙面の横幅いっぱいにひろがっていた。大人っぽい情念のほとばしるイラストの中に「狼」という文字が見えた。予備知識もなにもなかった。その広告からほとばしる何かが、私のくすぶったエネルギーをかき立てた。なだれ込む先を探していた川があふれるように、私は本屋へと走り、その本を手に入れた。平井和正著“ウルフガイシリーズ”との初めての出会いである。内容的にはSFで、描写は暴力的かつ官能的、とても青少年のお薦め本リストには載っていない。けれどもその中にうたいあげられている野生の精神は、いたく私の琴線に触れた。日常的な世界を越えていく扉を、私はこのときはじめて開けたのだ。

「ものがたり」というのは心を乗せる川だと思う。それは日常と無関係な虚構ではなく、その地下を脈々と流れている。そして水脈がときおり地形を変えるように、日常を変える。“ウルフガイシリーズ”というSFから始まって、私は野生の狼に興味を持った。狼の生態がいかに誤解され、その性質がおとしめられ、虐殺されてきたかを知り、彼らのそばにいたいと思った。未来というものがはじめて見えたように思った。

⑤ “大人はいかにして子どもを逃がすか”の章

 そうはいっても「ものがたり」を現実に反映させるのは、生やさしいものではない。「高校球児」という「ものがたり」の肉体化に四苦八苦してきた経験が、私を慎重にしていた。表面的な日常をこなしながら、私はひとり悶々とし、そして満月の夜には遠吠えをした。田舎といっても一応街中である。今から思えばはなはだ迷惑な話だ。そこで両親に止められた覚えがないのが不思議なところだ。おぼえているのはただ果てのない月の美しさで、私は魂を月に飛ばしながら、まだ見ぬ狼の兄弟を思っていた。

 「ものがたり」を口にするのは勇気がいる。私が「ものがたり」の最初の聞き手としてI先生を選んだのは、本能的なものだ。2年生の終わりから3年生のはじめにかけてのある日、私は何かのついでのように、けれど本当はひと財産かけるつもりでその一言を口にした。

「アラスカへ行って、野生の狼の研究をしたい」と。そのとき、彼女が口にした一言のために、私は終生彼女に感謝する。I先生は丸い鼻をひくひくと動かしながらにっこりとほほえみ、そしていとも気軽に言ったのだ。

「やってみれば」

そしてそのとおり、私はやった。高校3年生の夏休みから受験勉強をはじめて、半年後の共通一次には、某大学生物学部に必要なだけの点数は稼ぎ出した。そこで2次試験に受かっていたら、また違った人生になっていただろうけれど、残念ながらそうは問屋がおろさない。私の人生はその後も曲がりくねりながら続き、結果としての今がある。

高校卒業時にI先生がいた記憶はない。私と彼女の関わりはほんのひとときのものだった。けれど一瞬の出会いでも、人生を変えることはある。「誤解され、おとしめられ、虐殺されてきた」野生の魂を求める旅は、このようにして始まったのだ。

人間が大いなる自然を思うがままにできると思ったとき、魂の中の野生もまたやせ細っていく。大人の子どもに対する態度にも、それは通じるものがある。

世間で大人とよばれている人間の方々、どうか子どもに扉を開けてやってください。それが血のつながった子どもであってもなくても、さらに内なる子どもであっても。彼らはきっと駆けていくはずですから。

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“Vulnerability”という魔法

2月に「ポラン通信」に載せた文章です。

前回の"Witness"という視点と連動していますので、あわせてお読みください。

20年以上前の光景からはじめよう。社会人になることが決まった春、わたしは女友達ふたりと卒業旅行に出かけた。行き先は中国。1週間くらいの旅だったと記憶している。私たちが学生だった頃は一般人が中国を自由に旅行することはできなかった。中国政府はすべてがパックされた旅行しか受け入れなかったのだ。ちょうど私たちが卒業する頃、初めてその制限がとかれた。めずらし物好きで冒険心にあふれた私たちは、旅行会社のおじさんが止めるのも聞かず、中国語の会話帳と往復のチケットのみを携えて、あてどない旅に出かけていった。毎日のホテルをとるのも一苦労、汽車(蒸気機関車です)のチケットは半日がかり、買い物はぼられる(不当な値段で売りつけられることです。念のため)の連続だったが、幸い深刻なトラブルはなく、無事帰国することができた。そのとき、とある町で知り合いになった青年が、しばし案内役を買って出てくれたことがある。考えてみれば、当時「日本から来た女の子」という存在は超レアものだったのだろう。その青年はとても張り切って、1週間分の重い荷物を詰め込んだボストンバッグを二つの肩にかけ、町を案内してくれた。

さて、ここで問題です。

「女の子が3人いて、荷物が3つありました。男の子が2つ荷物を持ちました。残りは何個でしょう」

答え:1個。

そしてその1個は当然のごとく、わたしの背にあった。確かに、三人の中ではわたしが一番身軽だった。バックパックに最小限の荷物だけを詰め、防寒着は現地で調達した。中国風キルティングジャケットを着たアジアンナチュラルなわたしは、地方に行けば「上海から来たの?」、上海を歩けば「香港から来たの?」といわれ続け、ことあるごとに、純正日本人にしか見えない連れのふたりとの違いを思い知らされていた。だから青年の選択はどうみても正しかった。そして自分で背負えるだけの荷物を持って旅することは喜びだったにもかかわらず、このときの光景を思い出すたびに、わたしの中を複雑な思いが駆け抜けていく。

“Vulnerability”(バルネラビリティ)という言葉に出会ったのは、アンナ・ハルプリンのワークショップでのことだ。このときの情景を拙著「魂にささげるダンス」から抜き出してみる(p167-8)。

「この言葉を教えてくれたのはアンナだった。ある日ワークが終わった後、彼女はわたしを見つめ、しみじみこういった。

『Kiyomi, you are so vulnerable』

言い方や表情からは、否定的な意味合いは感じなかったが、その表現を耳にするのは初めてだった。(中略)わたしはその単語を『無防備な』と訳し、ひとりうなずいた。まあそうかもね。自分の無鉄砲さが公に認められたようでおかしかった」

ちなみにリーダーズ英和辞典では“vulnerable”という単語に対し、「傷つきやすい、 攻撃されやすい、 無防備な、 脆弱な、 非難をうけやすい、 《誘惑・説得などに》 弱い」という言葉があがっている。これだけ読むと、あまりいい意味合いはない。それどころか、少し調べてみたところ、人類学では「攻撃誘発性」(攻撃を引き起こしやすい性質)、社会人類学では「いじめられっ子」の属性として使われている。

え、わたしがいじめられっ子だったってのかい?

けれど「バルネラビリティ」には、そういう負の意味合いを越えた可能性がある。その可能性をわかりやすく示してくれるのが、ネットワーク論の学者である金子郁容さんが書いた「ボランティア―もうひとつの情報社会」という本だ。この本の中で金子さんは「ボランティアとしての関わり方」を選択することは、自分自身をひ弱い立場に立たせることだとし、その状態を「バルネラブル」と言い表している。「ひ弱い立場」というのは「結果を予測しない」「見返りを求めない」という立場である。また「言い出しっぺ」になったり、引き受け手のない役に自ら手をあげることも含まれるかもしれない。肝心なのは「バルネラブル」になることで「窓」が開かれることだ。

「ボランティアは、まず、自分から動くことで、自らをバルネラブルにする。しかし、まず、自分から動くことが、「ふさわしい場所」を空けておくことにもなるのである。つまり、バルネラブルであるということは、弱さ、攻撃されやすさ、傷つきやすさであるとともに、相手から力をもらうための「窓」を開けるための秘密の鍵でもあるのだ。バルネラビリティは、弱さの強さであり、それゆえの不思議な魅力があるのだ」(p125)

「相手から力をもらうための『窓』を開けるための秘密の鍵」や「弱さの強さ」という表現は、アンナの口から発せられた“vulnerable”という言葉の実感にぴたりと合う。この言葉の魔法の粉がかかると、一般にマイナスだとされている人間の属性、たとえば「できない」とか「知らない」とか「幼い」がまったく違った意味合いを帯びてくる。ただこの属性をプラスに変えるためにはひとつ条件がある。最初の扉は自分で開かなくてはならない、ということだ。どういうことかというと、その属性を世界に対して素直に差し出すことだ。すなわち、知らなければ聞けばいいし、できなければ頼めばいい。「幼い」という属性は少し性質が違うかもしれないが、赤ちゃんがその「幼さ」を差し出している様を見れば、誰でも抱き上げずにはいられない、という風にいえばわかるだろうか。

「自分で自分の荷物を担げること」は少しも悪いことではない。それでも中国でのあの瞬間にわたしが感じた複雑な思いは、彼女たちの状態に吹き込んだ「助力」に対するうらやましさだったのかもしれない。子どもが育つ過程でも「できる」ということばかりにこだわってしまうと、幼いものが本来持っているはずの「扉を開ける能力」が見えなくなってしまうような気がする。「扉を開ける」というのは、自ら動き出し、世界とつながっていくことだ。どんなに個人として能力が高くても、ひとりのできることには限界がある。けれど、扉を開け、世界とつながっていくことには限界はないのではないかとわたしは思う。「魔法」が働き出す瞬間がこの世には確かに存在する。

「バルネラビリティ」の働きは何よりも「昔ばなし」の中によく現れている。昔ばなしで何かをなしとげるのは、兄弟姉妹の中で「ばか」とか「うすのろ」とかいわれている末の子どものことが多い。あれが「子どものためのおとぎ話」ではなく、「世界のつながりの本来の姿」だとしたらどうだろう。金子さんは「ボランティア」に代表される「まず、自分が動く」という行為は、たかだか数百年の歴史しか持たない資本主義の中で、人間が太古からつちかってきた「まず与える」という社会システムが新しい形で動き出したものと見、その未来の可能性を説いている。

あなたは子どもにどんな人間になってほしいですか?

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”Witness"という視点

12月に「ポラン通信」に載せた文章です。久々に長いです。

前世紀、80年代にアンナ・ハルプリンは「観客」を否定した。アンナ・ハルプリンといっても、拙著「魂にささげるダンス」を読んでくださった方以外は、ご存じないと思うので、今回の内容に関係することだけ簡単に説明する。彼女は60年代にN.Y.のブロードウェイで活躍していたダンサーだった。自分の作品をつくるようになると、始めに彼女がやったことは、今までのダンスを否定することだった。これは当時のひとつの流れではあるのだが、振り付けをせず、偶然起こる動きを生かしたり、ダンスの決まったポーズではなく、日常動作を用いたり、音楽ではなく効果音を、時には観客の出した効果音を使うような舞台を数多くつくった。これだけなら「ポストモダンダンス」と呼ばれる多くの人たちが試みたことだが、その後70年代の闘病生活を得て、80年代に彼女はまったく独自の世界へ踏み込んでいく。一番わかりやすいのは、HIV感染者とともにつくりあげた「サークル・ジ・アース」というパフォーマンスだろう。当時HIVウィルスに感染することは、「死」を意味した。「サークル・ジ・アース」は感染者ひとりひとりが「生きたい」と叫ぶという内容のパフォーマンスだった。彼らを取り巻いている人たちは、舞台でおこっていることに無関係な「観客」ではなく、彼らを愛し、支えたいと願う人たちだった。アンナはその「支え手」のことを“Witness”と呼んだ。

子どもと共に過ごす過程を大切にするような育児(育自?)をしたいと思うときにも、この“Witness”という考え方はとても大切だ。自著の中でわたしはこの単語を辞書のとおりに「目撃者」と訳しているが、ふたりの子育てに関わってきた今なら、違う訳し方をすると思う。その訳を示す前に、“Witness”として子どもに関わるとはどういうことかを、具体的に考えてみたい。

この間、公園でおもしろい体験をした。ことの始まりは森が持ち込んだ1本のホースである。森がやろうとしていたのは「火山」という遊びで、砂山の中にホースを埋め、頂上に噴火口をつくる。そしてホースのもう一方の端から水を注ぎ込む。これだけだと水はちょろちょろしか流れ出さないので、ホースの端に口を当て、思いっきり息を吹き込む。すると、水が噴火口から噴き出し、まるで火山が噴火したように見える、という遊びである。その日は近隣のA幼稚園が休みで、たくさんの親子連れでにぎわっていた。そこはいろいろなことを教えてくれて、なおかつ保育時間が長いと評判の園で、そのためか普段その幼稚園の子どもたちを、この公園で見かけることはめったにない。

森がホースを口にくわえ、うれしそうに水を吹き飛ばしていると、さっそく子どもたちが集まってきた。そりゃそうだ。おもしろいもん。自分のペースで遊びを進めたい森は、大きいお兄ちゃんたちに囲まれて迷惑そうだが、わたしはあえて子どもたちを止めなかった。だって、みんなのいるところで何かやるのだから、関わり合いがおこるのが自然じゃない? 最初はめちゃくちゃに興奮していた子どもたちが、何とかこの遊びのからくりを理解し始めたとき、ひとつの事件が起こった。遠くの方で車座になって座っていた子どもたちの保護者のひとりが、大声を上げながら砂場に近づいてきたのだ。

「ちょっと、あんたたち、やめなさい!」

わたしが声をかけるまもなく、彼女は砂場の縁に足をかけると、差しこんであったホースを引き抜いた。どうやら子どもたちが「勝手に誰かのホースを使って」遊んでいたと思ったらしい。彼女はわたしのすぐ目の前に立っている。

「あの…ちょっと…」

私は声をかけた。けれどすべての関心が目の前のことに集まっているようで、その程度の声ではまったく反応しない。知らない人にいきなり不作法だが、しかたがないので、わたしは彼女の肩を軽く叩いた。気がつかない。そう、怒っているときの肩というのは、本当に硬い。…しかたがない。わたしは指に力をこめ、彼女の肩を軽くつかんだ。彼女はようやく気がつき、ふりかえった。

ふりかえってみると、間近に見知らぬ人が立っている。通常知らない大人同士が目を合わせることは、まずない距離で。動揺、するよね? 

わたしはそれ以上おびやかさないように、彼女と目を合わせ、はっきりした言葉を使い、伝えた。その遊びはわたしと、わたしの子どもが始めた、ということ。ほかの子どもたちが加わってもかまわない、ということ。そして「ほんとうに困ったこと」になったら止めるけど、その他は子どもたちに任せたい、ということを。いいお母さんだったと思う。釈然としない表情をしながらも、一応去っていったのだから。

その後も色々あったが、本当に止めたのは一度だけ。ほかの子どもたちよりひとつ下で、言葉がまだつたない愚息が、ホースの入り口をふさぎ続ける子どもの手を踏みつけようとしたとき。そのときもわたしは森に「やめなさい」とは言わなかった。とっさにふたりを分け、「はい、君たち。なんだかやりたいことが違うみたいだね」といって、それぞれに手をマイクの形にして突きつけた。正直、入り口をふさぐ子どもの気持ちがわからなかったので、知りたいと思ったのだ。森の気持ちは単純だ。水が吹き上がるのが、ただおもしろい。彼にしてみれば、入り口をふさぐのは邪魔をしていることだ。だがその子の言い分は違った。

「ためると、もっと勢いよく出るから」

そうか、なるほど、なるほど。そこで、わたしは森にわかるように、お兄ちゃんは邪魔をしているのではなく、もっとおもしろくするためにこうしているのだと説明した。森はホンとかなあ、という感じだったが、一応気持ちを納めてくれた。お兄ちゃんも、この子は自分たちより少し幼いんだとわかってくれた。というわけで、よかったね。

そのうちに、子どもたちはどんどんはじけてきて、水がかかるのさえ楽しむようになり、またそのうちに近所のB幼稚園がひけて、いつも遊びに来ている子どもたちと入り交じり、砂場は大変な賑わいになった。念のために言っておくと、違う幼稚園の子同士が一緒に遊ぶのは、かなりオープンな雰囲気のあるこの公園ですら、かなり珍しい。

日常の子どもの育ちの場における“Witness”というのは「見まもり手」という言葉に訳すことができるかもしれない。「見まもり手」の役割には大きく分けてふたつある。ひとつは「外部に対して場を保持すること」。もうひとつは、「内部のバランスを取ること」。前者はわたしが他のお母さんに対して取った行動に当たるし、後者は子どもたちに対してやったことに当たる。

どちらの時も、大切なことは「価値観を押しつけないこと」だ、と思う。「わたしはこうしたい」と言い、「わたしはこうである」と言う、または確認する。次に「あなたはどうしたいの?」「あなたはどうなの?」と聴く。そして、相手の答えを待つ。子どもたちがもめているときも、どちらが悪い、と判断するより先に、どちらの言い分にも等しく耳を傾ける。たかがこれだけのことだが、これだけのことで子どもたちの振る舞いは大きく違ってくる。指示されることになれきっている子どもには、少々居心地が悪いかもしれないけれど…。

本当は「自由なあそび場」なんて、大人が確保してあげるものじゃないと思う。それでも、そうせざるを得ない社会状況が、ひしひしと砂場の周囲から押し寄せてくる。崩壊する世界のただ中で、最後に立ち続ける場所を選ぶとしたら、子どもが遊ぶ砂場のかたわらがいいな。もっとも、そうなる前にまだやることはある。機会があれば保護者の中の「見まもり力の育て方」についても書いてみたい。

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93粒の幸せ

今日・明日とキャンプ(のようなもの)に行くので、またまた更新ができません。と思ったら、以前アップするつもりで書いた記事を見つけました。「オキナワン」が終わってからと思って忘れていたのです。これは前回の「ポランの広場」に載せたものです。今の壁紙とちょっとあわないけど、過ぎ去りしナツノヒの海と森の活躍(?)をお楽しみください。

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 我が家の庭には畑がある。以前も書いたが、ウチは「名前のつけようがない長方形の土地に建てられた四角い建物」なので、道路脇のスペースをのぞけば、のこりの部分はすべて三角形になる。3つの三角形のうち、ひとつは玄関前のスペースだし、もうひとつはフキとミョウガと子どもたちに占領されている。かろうじて残された最後のひとつを畑にしてから、もう何年たつだろうか。最初、私の畑作りにつきあってくれたのは、当時まだ幼かった海であった。

あの頃、家の中は義母の要請にしたがって運営されていた(つまりもっと片付いていた)。私はその偏狭さを嫌い、庭に自治区を求めた。庭に畑を作るのは長年の夢であったが、もともと不精者の私が踏み切れたのは一冊の本と出会ったおかげだ。それは「自然流家庭菜園の作り方」という本で、「草は抜かない(刈り取ります)」「耕さない(春にたい肥を施すときは別)」という二点が私の琴線に触れたのだった。だが長年にわたり草一本生やさないように管理されてきた庭の土は、お世辞にもふかふかではなかった。土を「買って」くるという考え方もあったが、そこから採れるであろう収穫に見合う以上のお金を、園芸店に払わなければならないのは納得がいかなかった。畑作りは趣味じゃない。実益だ。投資した資本が回収できないようなプランでは、「やまんば流」とは言えないのだ。

かくして私はもう一冊の本に出会った。それはEM農法の本で、生ゴミからたい肥をつくる際にEM菌の助けを借りるのがポイントである。私はコンポストと呼ばれる生ゴミバケツをふたつ購入した。コンポストはゴミの投入がしやすいよう、台所からすぐの窓際に置かれた。他のゴミを混ぜてはいけないので、三角コーナーに入れる時点で人工物を取り除く。たとえばティーパックも破り、中の葉っぱだけをあける。大きなゴミはたい肥化に時間がかかるので、スイカの皮などは細かく割って捨てる。

面倒くさがりの私がよく続いたって? 面倒だって思っていたら、たぶん続かなかった。私にとってゴミのたい肥化はワクワクする遊びだった。そして思っていた以上に気持ちが充実したのには、驚いた。自分たちが不要なものが、他のものを肥やすという気づきは、いのちを裏側から強く支える。自然が分解できる以上のゴミを排出することを、後ろめたいと思いながらやめることのできない「人間」。その存在の罪を等しく背負っている私が、ほんの少し楽になる。その程度のことだけど。

EM菌のおかげでゴミは充分に発酵し、心配していた匂いもそれほどではなかった。子どもたちにはさらにいろいろな楽しみがあった。ゴミの中に入っていた種子が勝手に発芽してくるので、そこいら中にカボチャやスイカの芽が出た。季節にあわないと枯れてしまうが、いろいろな葉っぱを見るのも楽しい。また、充分に発酵させたたい肥は土に還るのも早く、3ヶ月も待てばそこで泥遊びができる。魚の骨などはすぐに分解されてしまうが、貝や鳥の骨などは最後までのこり、穴掘りの子どもたちを探検家気分にさせてくれる。「ここは昔、貝塚だったんだよ」というと、けっこう本気にする子もいて、それがまた楽しい。

海はすっかり小学校高学年になってしまい、今や私とつきあってくれるのは森だけである。苗を買うにも一緒に連れていったのだが、これが間違いだった。何しろ奴は写真しか見ない。ゆえに自分の好きな野菜(の写真)を見ると、そこから動かない。今回、森が目をとめたのは黄色いつぶつぶの、おいしそうなトウモロコシであった。ハニーバンタム(の写真)をじーっと見ながら、「しんたん、トウモロコシが好きだったんだあ」と夢見る瞳でつぶやかれると、「たぶんそれを植えても、まともに実はならないよ」という現実的な判断は口にできなくなる。で、つい…買ってしまった。

以前は何でもまいてみた畑だが、手をかけられなくなってからは、どの作物が合うか真剣に考えるようになった。その結果ひとつ気づいたことがある。それは畑の日当たりのことだ。確かに東に面しているし、朝日はよく当たるのでごまかされやすいのだが、大して広くない上に二片を隣家と接しているので、地面に日光が射している時間がかなり短い。つまり、この庭で生き延びるには空に向かって伸びるしかない。その反省をふまえてトウモロコシ以外に私がカゴに入れたのは、上に伸びる野菜で手のかからないもの、「ミニトマト」と「つるありインゲン」。その間にはさまれたトウモロコシに、望みがあるとは思えなかった。

二ヶ月後、私の心配をよそに二本のトウモロコシはなんとか生長した。トウモロコシの受粉はおもしろい。茎の先端に雄花が咲き、少し遅れて葉のつけ根に雌花が咲く。雌穂から出てくる花柱が薄緑色の脇毛となって風にそよぎ、雄花の散らした花粉を受粉する。問題は雄花と雌花のタイミングである。今年、雄花は順調に開いたのだが、雌花が遅かった。私は毎日葉のつけ根を眺めて過ごした。そしてようやくひげが出てきたときには、雄花の花粉はほとんど散ってしまっていた。私がその仕組みを説明し、残念がっていたら、海は片方の雄花をゆすって、手に受けた花粉をそこにふりかけていた。海流の「人工授粉」である。そして「これ、私のトウモロコシ」だって。調子がいいったら。

わずか一本に、一房ずつ。受粉した穂は大きくなっていったが、そっと触るとやはり実つきが悪いのがわかる。今や森はもちろん、海までがトウモロコシ様の御成(おなり)を、首を長くして待っている。少しでも実を太らせようとギリギリまで待っていたが、夏休みに入って少し落ち着いた日、今日こそはとろうと決意した。

ふたりを呼び、一本ずつもぎ取らせ、そのまま台所へ。海はちゃっかり「自分の」トウモロコシをこれだ、といってはばからない。そしていよいよ、その瞬間。海の手がつやつやしたみどりの滝を押し分ける。けれど当然実がついているはずのところには、芯しかない。私と海はちらりと目を交わす。(やっぱりね)(しょうがないよ)花柱はむなしいくらい豊かに流れ、その中から海が一粒の黄色(「おおきいよ!」)を見つけ出す。(「森、森、トウモロコシだよ!」)そのあとは森も加わって夢中で皮をはいだ。クリーム色の芯に飾りのようについた黄色のつぶつぶは、きれいなボタンのようにつやつやしていた。

私は皿を二枚だし、蒸し上がったトウモロコシを一本ずつ並べた。そしてふたりにひと皿ずつ渡して(もちろん海のトウモロコシは海に)、去ろうとした。しかしこのときになって海が文句を言い始めた。

「私の方が少ない。絶対少ない」

私はふたつをくらべてみた。まばらなボタンのつきかたはどう見ても同じだ。確かに、海の言うとおり、もしかしたら微妙に森の方が多いかも、しれない…。だけど、そもそもトウモロコシを選んだのは森なんだし、海はじぶんのを自分で決めたんだから、と私は海を説得する。ところが海は折れない。あんまり強情なので、つい面倒くさくなって叫んでしまった。

「じゃあ数えれば、いいだろう!」海の目がきらりと光る。

言ってしまってから後悔した。もし森の方が多かったとしても、森が素直に差し出すだろうか。私は結論を見届けるのがいやで、そのまま二階に上がってしまった。勝手にしろ!である。

二階から下りてきたとき、すべては食べ尽くされていた。私は海に聞いた。

「何粒だったの」「44粒と49粒!」

海のうれしそうな顔。49-44=5。…わずか5粒じゃねえか。

「それで?」と私は重ねて聞く。その5粒の差がどうなったのか。

「森が2粒くれた!」森を見る。森もにこにこしている。

「森の方が一粒多いんだよ」と弟にゆずった姉は寛大にもほほえむ。

「私の分は?」「ないよ!」これはふたり同時。

結果として姉にゆずった弟と、弟にゆずった(つもりの)姉。にこにこしているふたりを前にして、これ以上何も言うことはない。

あとで掃除をしていたとき、床に落ちていた二粒を私はこっそり拾って食べた。いったい落としたのはどっちだったのか。その二粒は、とても甘かった。

 

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自由研究〈弟〉

やっと夏休みらしい天気になってきました。
私事ですが、今「ポランの広場」の原稿を書いていて、ブログの更新まで手が回りません。代わりに今日は、以前「ポラン」に掲載した文章を載せました。これを読むと、去年の夏も戦いだったとしみじみ思います。もちろん今年も戦いですが、子どもたちが少しずつ成長しているのもわかり、少しうれしいです。
皆様はどのような夏休みをお過ごしですか?

☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆

長女の〈海〉は九才。具象思考と抽象思考のあいだにある、通称「九才の壁」をヤモリのようにぺたぺたとはい登っている小学四年生である。

午前6時。海の朝は、去年、誕生日にもらった、けたたましい目覚まし時計の音で始まる。これがさっぱりきき目がないばかりか、ほんとうは寝ていてほしい二才の〈森〉を起こしてしまう。森がベッドで私を呼ぶ。パソコンに向かう手を休めてベッドに行き、森を抱っこする。森の寝覚めはよい。ふと目を向けると、海はまだ寝ている。パジャマの上着からのぞく、おへそをくすぐってみる。寝起きの海は大変きげんが悪く、怪獣のようにうなり、手足を振り回す。私は「起きろよ」と声をかけ、森とともに隣室に向かう、

6時半。身支度を終え、森をトイレに追いやる。寝室はしーんとしている。渋々のぞく私の目に映る、いつもの光景。先ほど起こしたはずの海は、クジラのごとく堂々と寝ている。もうすぐ朝ご飯。私はかなり強硬に海を起こし、台所へ向かう。

6時45分。気が早く、行動も早い森はさっさと冷蔵庫を開け、自分で牛乳をつごうとする。コーヒーのにおいをさせながら相棒も降りてきて、朝ご飯が始まる。海はまだ来ない。二階で「ジュン!」という高速音がする。海がぜんそくの薬を吸引する音だ。あれが聞こえるともうすぐゴール。

海はけっこう苦労人だ。

生後四ヶ月でアトピーを、四才でぜんそくを発症。入院こそしたことがないものの、食べられないものが結構あって、幼稚園時代はお誕生日会のたびに頭をひねらされた。みんなにアイスクリームが出たとき、冷凍バナナに、アイスと同じようにトッピングをしたものを食べさせられたことを海はまだ覚えている。小学一年生の時は「学級崩壊」の憂き目にあい、今年の春には、大好きだった担任を「事件」で失っている。ひとりっ子歴も長く、七才の誕生日を迎えて、ようやく弟の森が生まれた。

姉が海なら、弟は森。こう決めたことにはちょっとだけワケがある。私は三人姉妹の長女で、すぐ下は三歳ちがいで早生まれの妹だった。二学年しかちがわないから、幼稚園から中学まで、一年は必ず同じ学校に通う。この妹にことごとくライバル視された苦い経験が私にはある。学級委員を平然と断るような子どもだった私に比べ、妹は表にたつことが好きだった。今になって思えば、私がことごとく振り払ってきた両親の期待を、落ち穂拾いのようにかき集めようとした妹の実像が、ほほえましいのだが、当時は背後に張り付く視線がイヤだった。

そこで、である。自分ができなかったことを子どもに託すというアホーなまねを私もしてしまった。

「森は海の恋人」という言葉がある。もともとは宮城県の気仙沼でカキの養殖をしている畠山重篤(はたけやま・しげあつ)さんが、上流にある根室山への植林運動を始めたときに掲げた言葉だなぜ、漁師が山に木を植えるのかというと、海の生態系の基本である植物性プランクトンが成長するためには、 ある種のミネラルが必要で、これらは広葉樹の森から川を通じてやってくるのだそうだ。豊かな森を背景にした川から流れ込む河口は、植物プランクトンが繁殖しやすいから、動物プランクトンや魚貝類を含む豊かな生態系を維持できる。逆に言えば、森が失われれば、豊かな海も失われる…。

 名前をつけた当時はこんな細かいことまで知っていたわけではない。私はそのうろ覚えの語句から「ひとりの人間が豊かになることで、もうひとりの人間も豊かになる」という考えを勝手に導き出し、〈海〉という姉を持つ二番目の子どもに〈森〉とつけた。それはひと皿のケーキを巡って、いつも争っていたような自分の育ちに対する、ある種の後悔から来ているのかもしれない。

願うのは親の勝手、育つのは子の勝手。時は、少しさかのぼって夏休み。今日もふたりは朝からうるさい。

「こんなに年が離れていても、ケンカをするんですか」とよく人に聞かれるが、どんなに離れていてもケンカはする。ケンカ、それ自体はかまわないが、どうも夏休みに入ってからの海のようすが私には気にくわない。たとえば、ある食事中のセリフ。
「森、ちゃんとすわりなさい」(ま、いいか)
「パン食べるまで、モモ食べちゃため」(自分のが少なくなるもんな)
「食べてるとき、遊んじゃだめでしょ」(まあ、そうだが、まず無理)
「牛乳、飲むのにスプーンいらないんだよ」(いいじゃねえか)
「ちーび、チビ、チビ、チビ」(…)

うーん。ちょっとうまい例が思いつかないのだが、私を何よりいらいらさせたのは、海の言葉の端々に感じられる「学校くささ」とでも言うものだった。

海ももう四年生。授業も5時間、6時間の日が続き、帰ってからも宿題をするか、遊びに行ってしまうか、なので、森と過ごす時間は思いの外少ない。だがこーんなにおもしろい二歳児という生き物を前にして、どうみても二歳児には必要のないルールを押しつけまくるとは…。

おまえいつの間に、そんなに学校に染まってしまったんだ…。

私の胸は娘を新興宗教にとられてしまった親のように痛んだ。そしてその痛みを黙って見過ごすことができるほど、私は「大人しい」人間ではなかった。

海は夏休みの自由研究をしたことがないし、させようとしたこともない。けれど、今年は違った。私はある思いを胸に、海に自由研究を勧めた。もともと娘に何かをやり遂げてほしいと思っていた相棒もこれに荷担した。私が提案した選択肢はふたつ。「読書日記」か「観察日記」。どちらも自由研究の王道である。もちろん私のねらいは後者にあった。観察するのは身近にいるのに、暮らしぶりをよく知らない生き物。たとえば朝顔、セミ、カブトムシ。あるいは〈弟〉。

…こうして『自由研究〈弟〉』はスタートした。これから約一ヶ月、海はデジタルカメラで森の写真を撮りまくり、一日一枚を選んで、それにコメントをつけるという日々を送った。相棒にとっては、ピンぼけの写真を捨てまくる日々であり、私にとってはどこへ行くにもカメラを忘れられないというやっかいな日々であった。海はほぼ毎日、私と相棒に怒られながら、作業を続け、夏休み終了まであと一日というときにようやく一冊の本が完成した。

まとめのページに並んだ子どもらしい感想(「弟はアイスを食べるのが早い」「時々憎たらしい」など)の中に次の一文があった。

「弟はこうすれば、こうなるということがわからない」

そう。そうなんだよ。あいつは具象思考の生き物で、それはそれでいい。そして今、抽象思考の壁をいっしょうけんめい登っているキミはキミでいい。家族って一緒に住んでいるけれど、一人一人に流れている時間はけっして同じじゃない。それを時々確認し、その違いを認めあえたら、家族という生態系はもっと豊かになるような気がする。

あなたも、誰かの「観察日記」をつけてみませんか?

 

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雨を呑む

これは去年の6月に「ポラン通信」に載せたものです。これを読むと今年は空(から)梅雨だなあってつくづく思います。そしてわずか一年前なのに、子どもの成長ぶりにも驚かされます。去年のあなたたちはいったいどこへ行ってしまったのだろう。

・|・|・|・|・|・|・|・|・|・|・|・|・|・|・|・

《呑む:かまずに丸のみにする。受け入れる。あなどる。こらえる。》
《飲む:液体などを口にする 》

雨、好きですか?
そう聞かれて、はい、と答える人はあんまりいないと思う。何しろ、今は梅雨の真っ最中。
「雨、やだな」「また、雨か」
隣の市まで自転車通勤をしている相棒は、曇り空を見るたびこうつぶやくし、小4の海(娘)は七夕のたんざくに「雨でプールが中止になりませんように」と書いた。
でも生まれつきあまのじゃくのわたしは、人が嫌いなものほど、嫌いと言いたくない。
自転車で15分弱かかった幼稚園の送り迎えは、ほとんど雨合羽ですませた。外出先で突然の雨に見舞われ、あわてる海を前に言い放つ言葉は
「砂糖でできてるんじゃないから、溶けやしないよ」。

子どもは雨が好きだ。というか、雨だからといって、特にいやがる理由を持たない、と言ったほうがいい。
 子どもを雨嫌いにしないこつは、ふたつある、とわたしは思う。ひとつは、周りの大人が雨をいやがる態度を見せないこと。そしてふたつめは充分な装備を用意すること。

 この間、自転車で20分、土砂降りのなかを走るという経験をした。さすがに好きでしたわけではないのだが、走っている最中は意外と快適だった。6月の雨は暖かく、惜しげなく降り注ぐ。後部座席の森(息子)はレインコートと長靴でがっちりガードしてあったので、彼のことを気にせず、走りに没頭できたのもよかったのかもしれない。目的の公民館に着き、タオルで全身をふいたあと、まずは森を着替えさせ、いつもの「語り」の勉強会が始まったのだが、当然のことながらわたしの着替えはない。問題はそこから発生した。

「気化熱」というのをご存じだろうか。辞書を引くと、「液体が気化するのに要する熱量」とある。一見、日常生活には無関係のようだが、このときのわたしの運命を決めたのはこれだった。要するに衣服が乾くとき(液体が気化するとき)に必要な熱量を(他の誰でもなく)わたしが提供するわけで、その結果として体温がどんどん下がっていくのである。かくして1時間後、大宇宙の法則に従い、わたしの身体はすっかり冷え切ってしまった。

奪われた熱量を取り戻すべく、わたしはまず燃料を補給した。つまりお昼に、と持ってきたおにぎりを口にしたのである。いくらわたしでも、勉強会の最中にふつうそんなことはしない。そのくらい追い込まれていたのである。おにぎりはあっというまに胃袋に収まってしまい、わたしはまだ冷えていた。そこで次にわたしは筋肉を収縮されることによって熱量を発生させるという作戦を思いついた。すなわち、その場でぴょんぴょん跳び跳ね始めたのである…。優しい仲間たちは黙って見過ごしてくれた。ありがたいことだ。

このように「理」にかなった行動により、衣服は乾き、体温は無事取り戻されたのだが、隣を見ると、わたしより遙かに遠方から来たはずの友人はなぜか涼しい(暖かい?)顔でほほえんでいる(ちなみに彼女は車を運転しない)。そして「ぬれなかったの?」と訪ねたわたしに彼女はにっこり笑ってこう答えた。「ぬれたよ。でも…着替えたの」

教訓その1「雨は友だち。でもぬれたら着替えようね」

 遙か昔、といってもたかだか5、6年前、海を自転車で15分かかる幼稚園に入れようと決めたとき、わたしたち親子はふたつのものをそろえた。ひざまであるかっこいい長靴と、長ーいゴムびきのレインコートである。これを手に入れてから、雨の日の外出が快適になった。レインコートは全く水を通さないので、少しの雨なら傘を差さなくてもいい。これで幼い子の手を引きながら、傘を差すというあのアクロバティックな体勢から逃れることができる。長靴はあくまで長く、どんな水たまりでも挑んでやろうという気にさせてくれる。そう、次は水たまりの話しなのだ。

森は水たまりが好きだ。海の小さい時はわたしもまだ躊躇があったから、水たまりで遊んでいる姿を見届けたことがなかった。どうしても、とちゅうで呼び返してしまう自分がいた。彼女は幼稚園以降のほうがよくそういう遊びをしている。これは幼稚園のおかげだと思う。ありがたいことだ。でも自分がなにを見逃してしまったかに気がついたのは、森の遊びを見届けるようになってからだ。

先日、けっこうなどしゃ降りの日、どうしても外出しなければならない用事があって、二歳半の森と駅まで歩いた。15分くらいの道のりだが、今回の装備は完璧である。行きは雨足も強く、コンクリートの路面をいきおいよく流れるくらいだったのだが、帰りには雨もほとんどあがり、もうじき家に着くとあって、わたしの気分もゆるんでいた。それまでも路上を流れる雨を見るたび「かわ(川)だ。かわだ」とはしゃぎ、ずっと遊んでいたがるのを、先を急ぐわたしによって、ごまかされ続けていた森だが、とある駐車場の前でぴたりと足を止めた。

そこは歯医者の駐車場で、ほとんど車が止まっていないのと、砂利敷きのため、普段から子どもたちがよく寄り道をしている。のどか、というかのんきというか、ロクに整地もされていないので、地面はでこぼこのままで、いつも水たまりが最後まで残っている。だが今そこに残っているのは最後の水たまりなどではなかった。家の2軒ぐらいは建ちそうな空間が、今朝から降り続いた雨により、数多くの水たまりが点在する迷路のような場所に変わってしまっていたのだ。

森は当然のように水たまりに足を踏み入れた。ここまで来れば家まであと五分。早く帰りたいなあ。わたしは家の乾いた空間を思い浮かべる。その思いを察したかのように森は意外と慎重だった。いや、というのはわたしの思い過ごしでどうやら水たまりが深いらしい。見れば長靴はもう半分くらい泥水に隠れている。わずかの躊躇のあと、彼は思いきってもう一歩踏み出した。ぴしゃん。泥水ははねて、長靴の縁を越え、同時にその音と水の動きが、彼の抑制を吹き飛ばした。あとはもう…。

わたしは待っていた。ばかみたいに待っていた。通行人が通り過ぎ、無関心な、あるいは暖かい視線を私たちに投げていく。それも気にならず、あるいは気にせず、わたしは壁のように突っ立って、その空間を守っている。彼はひとつではやめなかった。ひとつ、またひとつ、泥色の世界を探っていく。わたしの存在を忘れ、自分が庇護者からどんなに遠ざかっているかも忘れ、世界の果てまで行って…そして振り返る。(二歳児にしては)遙かな空間を隔てて、森はわたしを見た。そしてほんの少し恥ずかしそうに笑い、それから意気揚々ともどってきた。まるで7つの海を征服したかのようなあの顔は、まちがいなく男の顔だったよなあ、と書くのは、ちと親バカが過ぎるか。

Ya007翌日、長靴は逆さにされ、一日玄関に干されていた。それでもまだ乾かなかったのは、全くみごととしかいいようがない。

教訓その2「やっぱり長靴の替えも欲しい」

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やまんばさんの教え

森の声さんの通信誌「ポラン通信」最新号に載せていただいた記事をアップしました。私の考え方の根っこがよくわかると思います。冒険遊び場についての情報も掲載されていますので、読んでみてください。

◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎ ◎◎

集団活動は昔から苦手だった。学級委員になってくれといわれても、素直にうなずくような子ではなかったし、クラブ活動だって高校までは縁がなかった。クラスの中でも仕切るような人間がいる集団には決して近づかず、片隅で好きなことをしているはぐれものの中に居心地よく隠れていた。集団活動の何がそんなにイヤだったのかといえば、「私たち同じものが好きです」「同じものを見てます」という均質な安息感、とその背後に隠れている異物を排除する感覚にどうしてもなじめなかったからだ。

「同じでなくてもつながれる」という目からウロコの真実に気づいたのは、やはりアンナ・ハルプリンのところで過ごしてからだろう。アンナというのは、私が敬愛してやまない、米国の「大やまんばさん」だ。そのときの私の体験については拙著「魂にささげるダンス」に詳しい。

私がどのくらい異物だったかというと、世界数カ国から集まった、私のほかひとりをのぞいて全員アングロ=サクソンの集団に飛び込んで、日本語を話す人が誰もいない中、合宿状態でひと月を過ごしたのだ。異物度ここに極まれり、である。けれどそんな環境でも私はあまり寂しくなかった。いや思い返してみれば、ドイツ語集団が楽しそうに内輪のおしゃべりをしていたり、米語の冗談がさっぱり聞き取れないときなど、ひとり取り残されるような思いもしたと思う。問題なのはそのような環境が、私がそれまで母国で生きてきた環境とあんまり変わらなかったということだ。私は、私とは違う言葉を話している集団の中でずっと過ごしてきた。それが同じ日本語と呼ばれる言葉だろうと、あれらは私の「物語」ではなかった。むしろあのひと月は、言葉が違うゆえに理解できないという現実が明白だった分、はるかに過ごしやすかったように思う。私は思うさまワガママに生き、しかもそのワガママさを愛してもらった。もちろん自分のワガママさに振り回され、また周囲を振り回しもしたものの、何しろみんなワガママだったのだから、これはもうお互い様だ。その合宿、というかワークショップの趣旨が、簡単に言うと「表現することを通して自分のワガママさをアートにする」つまり「らいふ・イズ・あーと」だったのだから、当然といえば当然かな。

その後も色々あって、合間、合間にお金を稼ぎながら3年ぐらいうろうろしていた。その後、帰国した私を待っていたのは、3年間で得てきた新しい認識と、現実のギャップというよくある結末。それでも救いの神はいるもので、なんとか日銭を稼いでいるうちに、相棒と出会い、生活を共にすることになった。たぶん私が彼に惹かれたのは、彼もまた誰とも共有できない物語を抱えていたからだと思う。あれから10年以上たつけれど、相変わらず私たちは物語を共有しているとは言えない(ことが多い)。それでも生活は成り立っているし、海と森もすこぶる元気だ。「共有しなくてもいい」という思いを共有している、魔可不思議な家族である。

さて、今回はここからが本題だ。じつはいま、生まれて初めて公の活動に関わっている。骨の髄まで集団活動がなじまない私が、足繁くお役所なんぞに出入りしている。どうしちゃったんだろう? どうしてかというと、「茅ヶ崎市民の森を冒険遊び場にする」という活動に率先して関わっているからだ。「冒険遊び場」の説明については「日本冒険遊び場づくり協会」のHPなどが、わかりやすくまとまっている。大まかにいうと、大人が手を取り合って、子どもが「自分の責任で自由に遊べる」場(既存の公園でもいいのだが)を設置し、見まもっていこうという活動で、先進地区の世田谷区では30年の活動歴を数える。Ya023

ここで活動してきた人たちは大先輩に当たるはずなので、ここから先は彼らにも、さらにはいま一緒に活動している仲間にも聞かせられないが、私は実に勝手な理由から「冒険遊び場」を推進している。前回のエッセイで「感覚が育つような刺激を好きに選べるような『空間』、おのずから起こってくるイメージを味わう『時間』、その物語を共有する『仲間』」と書いた。結局、これって私がアンナのところで体験したことの基本要素なんだよね。

たぶん私は「全員ワガママでも、何となく機能する場」が恋しくてたまらないのだ(例えば森の声さんの主催する冒険クラブのように)。そして「自分の責任で自由に遊べる子ども」以上に、「自分の責任で自由に働く大人」が恋しくてたまらない。もしも、もしもだよ、「茅ヶ崎市民の森の冒険遊び場」をつくる過程が「自分の責任で自由に遊ぶ・働く・大人たち」が、それぞれの自由度を保ちながら、つながることで進んでいくのであれば、これはもう本当の「冒険遊び場」になる。絶対なる。信じてみない?

「魂にささげるダンス」

魂にささげるダンス―アンナ・ハルプリンに導かれた「いのち」の軌跡

 

★冒険遊び場講演会のお知らせ★
◇講演会「遊びは生きる力のもとーいま、なぜ冒険遊び場なのか」
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24日(日)午後2時から4時 市役所分庁舎6階コミュニティホール 
講師:のりたけ、こと竹内紀子氏(日本冒険遊び場づくり協会理事・プレーリーダー)
内容:子どもにとっての遊びの意味を知り、遊び場の必要性を共に考える。
定員:100名(先着申し込み制  6/23締切)当日受付も可
保育:要申し込み(先着30名まで 保育料一人100円) 
問合せ:茅ヶ崎に冒険遊び場をつくろう会
竹内あき子 Tel/Fax:0467(54)8474
越地(こしじ)E-mail:Wolfruns@abox9.so-net.ne.jp

☆冒険遊び場19年度日程表☆
*この事業は茅ヶ崎市との協働事業で行っています*
茅ヶ崎に冒険あそび場をつくろう会/茅ヶ崎市生涯学習部青少年課


5月26日(土)市民の森に集う会① *森で遊ぼう *救急法を学ぼう(終了)
721日(土)市民の森に集う会② *プレーリーダー 橋本ミチ子氏を招いて
826日(日)市民の森に集う会③ *水で遊ぼう
922日(土)市民の森に集う会④ *竹で遊ぼう

1028日(日)市民の森に集う会⑤ *親子遊び研究家 篠秀夫氏を招いて
1124日(土)市民の森に集う会⑥ *焼き芋大会  *救急法を学ぼう
126日(土)市民の森に集う会⑦ *秘密基地で遊ぼう
224日(日)市民の森に集う会⑧ *プレーリーダー(誰かな?)を招いて
322日(土)市民の森に集う会⑨ *植物で遊ぼう

(注)活動内容は変更されることがあります。 

  時間:10時~15時(荒天中止)
  場所:茅ヶ崎市市民の森(地図が必要な方、ご連絡ください)
  持ち物:昼食、飲みもの、着替え、ビニールシート、軍手、
      ウインナ-、マシュマロなどたき火で焼きたいものご自由に
  交通:◆茅ヶ崎駅北口より 神奈中バス 1番乗り場
  「文教大学行き」「湘南ライフタウン行き」「湘南台行き」約15分      「堤坂下」バス停下車 徒歩10分
   ◆市立病院前より コミュニティバス 堤八王子原コース 約30分
   67番「市民の森入り口」下車 徒歩1分

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三年目のユスラウメ

今年もユスラウメの季節になった。ユスラウメを見るたび、思い出す話がある。今日は「こっしぃ's コラム」でお楽しみください。

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その年のことはよく覚えている。なぜなら我が家に「セイタカアワダチソウ戦役」が勃発した年だからだ。
 この忌まわしい歴史上の一事件について語るまえに、押さえておかなければならないポイントがふたつある。ひとつは我が家の地理で、もうひとつは家族構成だ。
 我が家は名前のつけようのない四角形の土地に建った、長方形の建物である。玄関前の駐車スペースと、裏手の二ヶ所の庭は三角形だが、道路に面した土地だけは、かろうじて自転車がおけるくらいの細長い通路になっている。この通路が今回の舞台である。
 ここで我が家のメンバーをおさらいする。わたしと相棒。10才の海と3才の森。だが、じつはウチには今まで登場しなかった第五の人物がいる。この人物が今回、物語の幕を開ける役割を果たすので紹介しておく。それは相棒の母、わたしにとっては世に言うところの「姑」なのだが、こういったからといって、嫁姑の話をするつもりはない。彼女はあくまで脇役であり、今回の主役は別にいる。それは彼女の外出をいつも補佐してくださる、善意に満ちあふれた「ボランティアさん」なのだ。
 さて、歴史ミステリーの前置きはこのあたりにして、そろそろ本編にはいることにする。
 「セイタカアワダチソウ戦役」とは何か?

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皆さんは、外出先から帰ってきて、家に何か異変を感じたことがありますか?
 鍵をかけ忘れたとか、不幸にして泥棒に入られたとか、家にパンダがいたとか?

わたしの遭遇した異変は、思いがけないものでした。玄関脇の通路に生えていたセイタカアワダチソウが、根こそぎ抜かれていたのです。それがどうした、といわれるかもしれません。たかがセイタカアワダチソウ、雑草じゃないか、って。でもそのセイタカアワダチソウは、わたしが成長を楽しみにしていた「植物」だったのです。わたしは見たかったのです。その植物が本当はどれくらい高くなるのかを、そしてどんな花が咲くのかを。

これっておかしいですか?

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わたしは雑草を抜くのが好きではない。以前は単なる怠け癖だと自分でも思っていたのだが、「不耕起」という有機栽培の手法を知ってから、ますます堂々と雑草を抜かないようになった。「不耕起」というのは・・・一言で言えば、土の中の生態系を大事にするやり方であり、もっと簡単に言えば、ミミズのおうちを荒さないことだ。だが絶対に抜かない、などと気取るつもりはない。必要があれば、えいっと抜く。そしてそのときは、ごめんなさい、である。

以前は違った。我が家の庭は雑草一本生えない、かといって園芸が趣味というわけではない寂しい庭であった。この寂しい庭を造るのに費やされるのは、相棒の貴重な休みと、缶ビールおよそ半ダース。この悪習を絶ちきったのがなんであったかは忘れてしまった。娘が生まれ、彼も忙しくなり、庭にかまっている時間がなくなった、というのが真相の半分。もう半分は、世代の交代による価値観の交代。とはいっても身体的な理由のため、自分では庭仕事をしないだけで、義母が雑草の生えている庭をよいと思っていたわけではないことだけは確かだ。だが時折かけられるプレッシャーは感じても、そんなことで動くほどヤワな神経はしていないのが、またわたしでもある。

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その惨状を見たとたん、わたしがまず感じたのは、なんともいえない気持ち悪さでした。子どもとわたしのための空間として作り上げてきた庭、自由解放区であるはずのその庭を土足で荒らした人間が、およそだれなのか見当はつきました。だが、わたしには確信がなかった。そしてもし的外れだったとき、起こる事態を想像すると…。けれど、毎年楽しみにしていたハルジオンまでがむしられているのを発見したとき、わたしの心は決まりました。わたしは義母にわからないようにその人にメッセージを伝える方法を考え、そして実行したのです。

わたしは太字でメモを書き、彼女が見るであろう場所に、置いておきました。置き手紙です。文面はかなり辛辣だったと思います。わたしはめちゃめちゃに頭にきていましたから。そして…たぶん効果はあったのだろうと思います。次に顔を合わせたとき、そのひとはとても微妙な反応をし、そして二度とそんなことは起こりませんでしたから。

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そう、これが真相である。けれど、一面的な真相でもある。見方を変えれば、善意で草むしりをやってあげたのに、なぜかその家の人に文句を言われた、という話になる。けれど、今回伝えたかったことはまた別にあるので、これでその話はおしまい。 

これはそのときむしられなかった、一本の草についての話だ。その草は(大抵の草がそうであるように)ある日、なぜか、生えてきた。なぜ彼女がその草をむしらなかったのかわたしは知らない。その草はなぜか生き延び、そして長くなっていった。まるで大地から生えているひげのように。

それが草ではないことにわたしが気づいたのは、二年目に入り、幹から葉っぱがもしゃもしゃと生えてきたからだ。どうやら何かの木らしい、というのがその年の結論だった。セイタカアワダチソウはこりずにまたその場所に根を張り、今度はじゃまもされず大きくなっていった。そして花を咲かせ、綿を散らし、せっかく干した傘を綿毛だらけにした。ああそうかこれだからセイタカアワダチソウは抜かれるのだなと、わたしはひとり満足し、来年からは花が咲くまえに抜こうと、心を決めた。そしてその木はほとんど注目もされないまま、三年目の春を迎えた。

相棒の自転車置き場は裏庭にある。彼は毎朝、自転車をそこに取りに行き、玄関前で支度を調えてから、私たちにさよならを言う。つまり、きまってその通路の脇を通るのだが、その彼がある日、去り際にわたしに言った。
「ねえ、知ってる? あの木、花が咲いてるよ」
 わたしと娘はすぐに駆けつけた。それはまあ、なんとも不思議な眺めだった。まるで花咲じいさんが灰をまいたかのように、あの棒みたいな木に花が咲いていた。そして、その花を見て、わたしはようやく木の正体に思い当たったのである。

わたしは実のなる木が好きだ。公園で実のなる木を探して歩くのは、趣味と実益を兼ねた遊びのひとつだ。だが(当たり前だが)人のうちの庭に生えている木には手を出さないことを原則にしている。でも原則というのは時々破られるために存在するので、たまには正体知りたさに味見したりしている。
 そんな中で見つけたあこがれの木がひとつある。あのお庭と、あのお庭と、あのお庭に、春になるとたわわに実っているあのユスラウメ。小粒ながら汁気たっぷりの実。甘さと酸っぱさがほどよく調和した味。

それが今なぜか、わたしの庭に…。

真相は意外なところから明らかになった。娘曰く、
「海ねえ、あそこに(ユスラウメの種を)ペッとしたな」
 したかも、しなかったかも…まあ…そういうことにしておくか。

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そう、あなたにひとつ警告しておく。くれぐれも他の人の雑草は抜かないことだ。特に子どもの心の庭に生えている雑草は…。いつか将来、それがすてきな木になって…なんてことも、この世にホントにある、のである。

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