埋めてきた
海岸に行って埋めてきた。
ある友人の生まれなかった胎児と
とある友人の取り去られた子宮と
遠くに行く、別の友人によって空いた心の穴を
石が胎児、クルミの殻が子宮、貝が心。
ひとつ、ひとつ、祈りを込めた。
埋めた後、失われたものがふたたび芽吹くように
豊穣の女神を飾った。
女神の股からすべてが生まれる。
こうして、死は生へと繋がっていく。
合掌
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海岸に行って埋めてきた。
ある友人の生まれなかった胎児と
とある友人の取り去られた子宮と
遠くに行く、別の友人によって空いた心の穴を
石が胎児、クルミの殻が子宮、貝が心。
ひとつ、ひとつ、祈りを込めた。
埋めた後、失われたものがふたたび芽吹くように
豊穣の女神を飾った。
女神の股からすべてが生まれる。
こうして、死は生へと繋がっていく。
合掌
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殺戮が起こっています。
感情の、感性の、肉体の
そして魂の殺戮が。
それをまず、見すえることから始めましょう。
死体のいっぱい詰まった部屋の扉を開けましょう。
もっとも逆説的な意味で、それは生への扉なのですから。
血だまりの中に立ち、野生の女を呼びましょう。
彼女は駆けてくるはずです。どこにいても。
忘れていても、今まで何年も忘れていたとしても、
裏切ったとしても、彼女を何度も裏切ったとしても
彼女は駆けてくるはずです。あなたのもとへ。
なぜなら、彼女はあなたなのですから。
深い闇の中で、彼女に呼びかけるとき
助けは必ず現れる。思いもかけないひとの姿になって。
けれども、戦うのはあなた自身。
身を潜め、すべてを見通し、必要とあれば稲妻のように動く。
そうして近づいていくはずです。求めていた場所へと。
そこでは、深い喜びと本当の仲間が
あなたを待っています。
それは「物語」?
そう「物語」。そして、物語は真実。
扉を…。
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昔、学校に通っていた頃「セプテンバー」と呼ばれる人たちがいた。「セプテンバー」とは9月のこと。そう、彼らは海外の学校から入学してくる「九月入学生」だった。
さて、世は4月。桜の咲くこの季節を新たなはじまりと感じるのは、この列島に生を受けためぐみだろうか。海は進学、森は進級、と子どもたちはそれぞれ新しい環境に挑んでいる。さて、私は?
ことの起こりは、3月に幼稚園で行われた「育ちを喜びあう会」。子どもたちの一年の成長をふりかえり、育ちを喜びあう感動的な会だった。私的には、大地に根を張った植物の自然さで、すくすく成長した息子に感心はしたものの、たいして苦労した覚えもない身には、感動までは訪れてこなかった。
そのとき、涙、涙のほかのお母さんを横目に、私が考えていたのはまったく別のことであった。
つまり、この会の大人バージョンはできないものだろうか、と。
おんなの学び塾「槻の屋」を初めて、一年あまりがたつ。私をはじめとして、ほかのメンバーの人生にもいろいろなことが起こった。そして、ひいき目に見て、彼女たちは自分の人生の舵をなんとかかんとか操っているように私には思えた。それを喜びたい、と思ったのだ。
もちろん、その中には「私」も入っている。自分のためにもお祝いをしたいし、また、されたい。その思いをほかのメンバーに話してみた。
今日は、その願いが叶う日だ。
昨年自分の身に起こったこと、変化したこと、始まったこと、終わったこと…。それらをふりかえり、ともに喜び、そして流れを見極め、次の一年の仮題を見通していく。それを分かち合える仲間がいるということは、とても幸せなことだ。
会の内容について、公にできるかどうかはわからない。でも、もし分かち合えることがあったら、それをあなたと分かち合いたい。
あなたは、進級しましたか?
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賀状の中に、一筆、訃報が紛れ込んでいた。古い友人からの便りに共通の知り合いの名前が書いてあった。「残念です」の一言とともに。
にわかには信じられずHPを探った。古典芸能「宮園節」の継承者としても知られる彼女のHPには、恐れていた事実が書き記されていた。
彼女の名は桃山晴衣(ももやまはるえ)。心の中の遙かな深みに、灯明のように刻み込んでいた名前である。年齢を重ねる先に先達がいるのは心強いものだ。彼女は「あんな風になりたい、あんな風になれたら」と、思うことをゆるしてくれた希有な存在だった。その人にもう現世で会うことはできないという事実は、彼女の作品が残されているということを差し引いても、やはりずっしりと重い。
机の上の小引き出しの中に一通の封書が保管されている。その頃持っていた一番いい和紙の封筒に、宛名だけが記されたまま、早20年が経とうとしている。
「郡上八幡 立光学舎(りゅうこうがくしゃ)内 桃山晴衣先生 土取利行先生」
捨てずに取っておいたのは、いつかは会いに行く日が来ると思っていたからだ。いつか…わたしがきちんと自分の足で立ち、いつか…郡上までの旅費が稼げるようになったら…。
知らせをくれた友人に返事を出そうと、ハガキ箱を探った。確か設立当時の立光学舎の写真ハガキが一枚残っていたと思った。そのハガキを友人に出すことで彼女を弔おう、と思っていた。ハガキを取りだし、じっと見つめた。郡上の山並みを背景に、かやぶき屋根の学舎が建ち、周りを大勢の人々が取りまいている。わたしが写っているわけではない、ただの白黒写真。
けれども、見つめるうちに、肉体の記憶がよみがえってきた。20年近く前、わたしは確かにこの学舎の前に立ち、一日終われば足腰が立たなくなるほどのワークショップに参加したのだ、と。それだけではない。土取レシピにより、桃山さんの作った絶妙なカレーを食べ(そう、スパイスが3粒はねたら…)、ワークショップの仲間といろりを囲んで止めどなく話した。かやぶき屋根の手入れの仕方から、ピーター・ブルックのワークショップの話まで…。
まったく、吹き上がるほどに若かった日々。先は見えず、見ようともせず、ただひたすら流れを追って走った。そうしてたどり着いた山深い学舎で、わたしはずっと探していたもの、この列島に存在するかすかな希望に触れた。桃山晴衣という人はそれくらい「確か」だった。
もともとピーター・ブルック好きの友人から聞いた話だった。だから土取さんの名前は知っていても、桃山さんの名前は知らなかった。彼女にあって初めて、わたしはこの列島に女性として存在することはそれほど悪いことではないかもしれない、と思い始めた。受け継がれてきたものにしっかりと結びついていながら、未来に対して開かれている人。そう、桃山さんは未熟な私たちをとても暖かく遇してくれた。
そのときに出会った人とのつながりはずいぶん長く続いた。そのうち、一人逝き、一人、また一人と連絡が取れなくなって、とうとうハガキをくれた友人が最後の一人になってしまった。
写真は記憶を開ける扉だった。わたしはそれを友人に送ることができなかった。最後に残った一枚の扉。
先日、立光学舎で行われた「偲ぶ会」では、一人一輪の野菊の花が、最後には吉田川に手向けられたという。1月24日に東京で行われる「偲ぶ会」にも参加することがかなわないわたしは、せめて心の中で一輪の花を手向けよう。受け継ぎ、かつそれを未来に放つ、たくさんの鎖のひとつになれるよう願いを込めて。
合掌。
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力を与えてくれた夢のことはよく覚えている。というか「力に気づかせてくれた夢」と言うべきかもしれないが。
「追跡と逃走」の夢は昔からよく見ていた。「ルパン三世」をはじめとし、マンガやアニメは大好きだったので、どこまでがその影響なのかはわからない。とにかく追われていて逃げる必要があるということは共通している。あるいは打ち破るべき相手がいるという設定のときもある。
これから語ろうとしている夢のときは逃げる方で、最終的にたどり着いたのが、恐ろしく急な傾斜の坂。しかも坂の幅は平均台くらいしかない。現実の感覚では歩いておりることは不可能だ。そりゃあもちろん夢なのだから、その坂を歩いておりるという解決策もあったかもしれないけれど、このときの解決策はちょっと違った。
夢の中で私は「その坂自体」を認識の力によって、ひょいと持ち上げ水平にした。そしてその上を悠々と歩いて坂を下った。
追っ手はどうして私がその坂を渡れたのか、理解できず、そこであきらめるという結末だったと思う。まあ、細部はどうでもいい。
夢から覚めてからも私はドキドキしていた。自分が今大変なことをしてしまったというのがわかっていたのだ。私は認識によって現実を変えた、というか
「認識によって現実が変えられる」
ということを学んだのだ。おそらく十代か二十代のときだと思うが、夢から覚めたときの、世界の真実を知ってしまったという感覚は今でも覚えている。あれからゆうに20年はたち、様々な経験を積んだ結果「認識によって現実が変えられる」というより「現実は認識の総体である。だから認識によって現実は変わる。あったりまえ!」と思うようになったが、あのときの感動は真実だ。
最近、複数の友人と「狼と駆ける女たち」の読書会を始めた。ただいま第二章の「青ひげ」を読んでいるところだ。そして、この章に出てくる「黒い男」のモチーフが、予想以上に夢の中に出てくることが多いとわかり、私も自分の夢を思い返してみることにした。「黒い男」とは「青ひげ」に象徴される「こころの内なる略奪者」、野生に対抗する「反自然的な力」のことだ。そうして出てきたのが先ほどの夢だ。
そのことに直接つながるわけではないが、私は自分のことをずっと「サバイバー(生き残り)」だと思っていた。ただし、両親のために一言添えておくと、DV(ドメスティック・バイオレンス)や虐待の経験はない。けれど深いところで、社会そのものによって殺されてきたものはあり、そのことがわたしをそう思わせてきたのだ。アウシュビッツ並みの夢もけっこう見た。けれど、なぜか…いつも生き延びた。そして年代を重ねるにつれ、逃げ延びる方法にオリジナリティと巧みさが加わった。大半の夢はノートにも書かれないまま、記憶から滑り落ちてしまったが、運良く記録にとどめられたものもある。次の夢は「黒い男」を探して、メモをあさっていたときに発見されたものだ。
2005年の夢(原文のまま)
今朝脳天をかち割る夢を見た。比喩ではない。男が女の脳天をかち割る夢だ。私たちは偶然その事件に関わり、巻き込まれる。「私たち」というのは色々な女たちの群れだ。賢い女もいればそうでもない女もいる。そんな群れ。その場面は直接見てない。先がとがっていて曲がった鉄の工具で、女の脳天がかち割られたという確かな実感があり(アレハヒメイデハナカッタノカ)、その直後、天井から真っ赤な血がしたたり落ちる。私たちは階下にいる。そのあと一台の車に乗って、取材に行く。取材先の男がどうやら犯人らしい。ひとりひとり紹介される。専門職種がない若い二人が下働き(要するにお茶くみのような)として紹介されると、その男は露骨に軽蔑の笑いを漏らす。ひとつの部屋から出て行くのに二つの通路がある。職種を持っている女たちは左側の扉から出て行く。若い二人が右側の扉から出て行こうとするとそれは開かない。あわててひとりがみんなが出て行った方の扉に追いすがる。扉は鍵が閉まっている。ここまでだと絶体絶命みたいだけど、この話には実に私的なオチが付いている。その扉はゴムでできていてぐにゃりと曲がり、鍵がかかっているにもかかわらず、二人は扉の端を持ち上げて、そこから逃げ出す。
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やれやれ、やっと現在にまでたどり着いた。
今進めている「槻の屋」のプロジェクトは二つある。一つは「狼と駆ける女たち」の読書会で、もうひとつは「骨盤筋底コントロール」を中心としたボディワークの実践と標準スコアづくりだ。身体と魂。この二つは境界をひくことが難しいほど密接に結びついているので、この二本柱をたてることは私にとって自然だった。そして仲間たちも快く了解してくれた。
「骨盤筋底コントロール」については、以前の連載ブログ記事「オニババからやまんばへ」で触れた。ここでは読書会について、少し詳しく述べてみたい。
「狼と駆ける女たち」は現在絶版なので、bk1など通常のブックサイトでは検索することもできない。詳細についてはAmazonの狼と駆ける女たちからご覧ください。
この本は何よりも物語の本だ。あとがきによれば、著者のクラリッサ・ピンコラ・エステスはユング派の精神分析医であるとともに、古くからの伝承物語の語り部、詩人としても活躍しているという。彼女が両方であったのは幸いなことだ。なぜなら著者も触れているように、精神分析の知という小径が絶えてしまうようなところでも、物語はしみ通ることができるからだ。私もまた物語の力を信じているひとりだ。この本に出てくるのは「青ひげ」「みにくいあひるの子」「赤い靴」のような、比較的多くの人が知っている物語から、古いイヌイトの物語「骸骨女」のような、おそらく日本語に訳されたのは始めての物語までだが、そのどれもが「野生の女」へ通じる道だ。
「物語に見いだされる教えは、この道がまだ消えてはいず、女たちがもっと深く、さらに深く、自分自身を知るように導いてくれるのです」(p13)
「槻の屋」の進め方は今のところこんな風だ。
一つの章に、一つの物語が割り当てられている。章の担当を決め、彼女がレジュメをつくる。それを元にして、話し合っていく。
本当にただの読書会だ。けれど、話し合ううちに話題は自分のこと、大事な人のこと、自分を生み出してきた人々のことなどに移り、時間はあっというまに過ぎ去ってしまう。最初に取りかかったのは、「第二章 忍びよる進入者―はじめの手ほどき」という「青ひげ」の章だが、この章のテーマは
「自分の深い生のある部分で行われているショッキングな殺戮を発見」(p74)することから始まる。「自己破壊と死」は秋葉原だけに転がっているのではない。「普通」と思われる人生においても、気がつかないだけでいのちは確実に削り取られていくのだ。死んでしまった友人、殺された夢。時には他人の言葉に操られ、自分で自分を削り取ってきたという事実。それは誰の人生にも起こっている「生の現実」であり、目をそむけさえしなければ、悲しいくらいありふれてさえいる。けれど、その事実を自覚するかしないかで事態は大きく変わってくる。「青ひげ」に象徴される「こころの内なる略奪者」を見据えることで、その向こうを張る存在である「野生の女」が浮かびあがってくるからだ。彼女はもっとも暗い部分を恐れない。見て、受けとめて、何とかする。そして、幸いなことに彼女はすべての女性の中にきっといる。
「いい子」でいられないのなら、幸いなことだ。それはあなたが「野生の女」に焦がれている証だからだ。「素直になれ」なんて言葉は犬にでもくれてやれ。狼には必要ない。素直に従うのは自分の直感だけで充分。自らの鼻でかぎ分け、道なき道をたどり、必要とあれば死ぬまで闘う。どうです。こんな女になりたいと思いませんか?
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どこから始めるかというのが、意外に重要だ。昔行き詰まったところへ戻るのが、必ずしも最上の道ではない。私たちは同じ河に二度と足を踏み入れることはできないからだ。これは悲しいことだが、救いでもある。
私の場合はやはり「狼」だった。彼の忠誠心は本当に変わることがない。「狼と駆ける女たち」を再び手元に置くようになったのは、ここ1年くらいだろうか。「生きていないものの理屈」を「生きているもの」に押しつけるこの世の中がすっかりイヤになったとき、私は息をするためにこの本を開いた。空気がこの中にしかなかったのだ。私は酸素マスクをかぶるように、この本の中に頭を突っこみ、真空の中を生き延びた。
たとえだと思う? いいや、真実だ。
気がつくと周りにも、息をしたがっている女たちがいて、私はこの酸素マスクは自分以外にも効くのでは、考え始めた。そこでおずおずと「狼と駆ける女たち」を差し出し、この本を一緒に読んでみないかと呼びかけた。問題はこの本が日本語ではすでに絶版だということで、テキストがそろうのにも時間がかかった。滞米生活が長かったある女性などは、ついに原書を取り寄せることで解決を図った。たまにAmazonなどでも見かけるが、たいてい元の値段より高くつけてあるからだ。
最初の集まりは昨年末。ちょうど「オニババ化する女たち」を読んでいた頃だ。このとき考えたことは「オニババからやまんばへ」にまとめてある。今展開している話にも関連するので、時間があるときにでも読んでみて欲しい。このときは「月経血コントロール」の話などで盛り上がった。もう一度集まりをもった後、何とか例会化したいということで意見が一致し、会の名前を決めることにした。実はこのときもビジョンが先にきていた。
「月経小屋」という言葉を知っているだろうか? 生理中の女性のために別に建物を建て、煮炊きの火も別にしてすごす時の小屋の名前だ。「生理中の女性は穢れているから」という理由と結びついていると説明され、不快な思いをした経験のある方もいるかもしれない。私はこの説明にずっと違和感があった。
前に触れた「樹の女」三部作は、月経、初潮、初体験という、文化による手垢がたっぷりついた現象を、解体していくような物語だ。これを読み終わったとき、今までそういう現象につきもののようにいだかされてきた思い込みが、するりと溶けていくはずだ(作者の力量不足はご容赦ください)。最初の月経をテーマにした小説のタイトルは「月経樹」。この中に先ほどの疑問に対する私の答えがちらりと混ぜてある。すなわち「女たちは(隔離されている間)何をしていたのか」
「踊ってたんじゃないかな」というのが私の答え。まあ、踊ってなくてもいいんだけど、要するに、日常から切り離された空間で過ごせるということは、(つまり家事も育児もしなくていい!)ここで何らかの魂的な行為が行われた可能性を示していると、私は思っていた。私の感性に近い記述をウェブサイト「Babycom」でみつけたときは、本当にうれしかった。
「月経小屋」「産小屋」の習慣は日本だけではないが、この国ではケヤキの木と関係が深いという説がある。素材がケヤキなのか、その木のそばに立てられたのか、その辺はこれから勉強します。ケヤキの木は別名「槻(つき)」。神事関係のページに出ていることが多いが、下記のサイトは林業関係、というのが目新しい。
「槻の屋(つきのや)」という名前は向こうからやってきた。そうして仲間たちにもすんなりと受けとめられた。要するに「月経小屋」のことだが、私の考える月経小屋は女たちの学びの場だ。こうしてプロジェクト「槻の屋」はスタートした。
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結局のところ、私の創造性に刺さったトゲとはなんだったのだろうか。いただいたコメントそのものでないのは確かだと思う。これはよく相棒とケンカになる点だが、彼にいわせると私は「計画性がなく」「途中で投げだしていることがたくさんあって」「そのくせ大口を叩く」性格なのだそうだ。彼によれば「目的を達するには計画が必要」で、プランもないのにはじめると「人に迷惑をかける」のだそうだ。そして私がまさにその典型というわけ。
でも本当にこれらの点はすべて欠点と見なされるのだろうか。
「計画性のなさ」は「臨機応変」ということだ。「途中で投げだしている」のではなく「やりたくないときはやらない」といって欲しい。「大口を叩く」のは確かだが、「ビジョンが見えてしまう」のだから仕方がない。この「見えてしまう」という点については、私も自分でずいぶん戸惑った。
「直感とヤーガのような力を取り戻した女は誰でも、それを投げ捨てたいという誘惑にかられるところまで行きます。すべてのことを見通し、知ることなど何の役にたちましょう?(中略)とはいえ、このように見、感受するようになれば、見たものを何とかしなければなりません。すぐれた直感、すぐれた力を持てば、当然しなければならないことがあるのです。」(「狼と駆ける女たち」p147)
「しなければならないこと」に対して私が力不足なのは認めよう。見えてしまうものを口に出すタイミングににも気をつけたほうがいい、ということも徐々に学んだ。しかし、見えたものを否定してはいけない。それは野生の知という「女の終生の斥候」を否定することになるから。私の敬愛する野生の母のひとりは、「こういうビジョンをもったのだけれど、こんなことできるかどうかわからない」といってひるむ私をこういって励ましてくれた。
「見えたということは、道を半分行ったようなもの」
持つべきものは野生の母だ。
異性である相棒が私に投げた言葉は、多くの場合、常識として私が自分に投げた言葉だ。すなわち「どうして決めたとおりにできないの」「今すぐやりなさい。こんなこともできないなんて」「さっさとやればいいのよ」
硬直した創造性に必要なのは、ムチではなく、信じて待ってあげることだと思う。それが7年前にわかっていたら、あんなに自分を責めずにすんだのに…。必要だったのはより深い学びと、現実に動いてみる体験。「おはなし」を覚えることで学んだのは、受け継がれてきた知恵と、表現の節約。「冒険あそび場」を通して学んだことは、他人とビジョンをどのように共有し、実現していくかということ。
私は充分に学んだ。さあ、それでは始めよう。
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1999年はまったく奇妙な年だった。この年にまかれた三つの種のうち、「魂にささげるダンス」はすくすくと育ち、芽を出した。「樹の女」三部作は公にするつもりはないが、のちに触れる理由によって私的には大事な作品となった。
そして今ではどうやったのか考えられないのだが、私は「魂…」をまとめる作業と並行して、とりつかれたように三つ目の小説を書き始めた。「魂…」が「表」だとしたら、こちらは「裏」だ。なぜならそれは、人にはとても見せられない「SF小説」だったからだ。奇妙なのは、表の作業が進むほどに、裏の作業も進んだことだ。昼間、海が幼稚園に行っている間に表の作業をし、真夜中に啓示を受けて跳ね起きては小説を書き進めた。予想を超え、それはどんどん長くなった。(400字詰め換算で)500枚を超え、1000枚を超え、ついには1600枚までいった。これがどのくらい異常な数字かといえば、「魂…」の原稿がおよそ350枚だといえば、わかっていただけるだろうか。それは忘れもしない2001年夏至の日に完成した、単行本ゆうに4冊分の「鬼子」であった。
鬼子にも名前はある。仮に「御免羅臼(おめらす)」という。それは3000年にわたって封じられていた「野生の力」の物語だった。この話の元型が書き記されたのは、さらに遡って91年。私がタマルパの一年課程を終え、帰国した頃だ。しかし私はずっと以前からこの物語を知っていた。主人公はずっと私の夢の中に住んでいたのだ。個人的には「世界を敵に回しても」書かなければならない物語であった。
書き上げたことで満足していればよかったのかもしれない。けれど初めての本を仕上げ、調子づいていた私は、どうしても他人の評価が欲しくなった。それも身内や知人ではなく、編集者の目で見てもらいたかった。プロの目で見てもらい、コメントをいただいて、書き直す。「魂…」で編集者のありがたさを思い知らされた私は、そういう王道をこの鬼子にも歩ませてやりたい、と思ったのだ。
例によってツテはなくても、直接行動。心臓にかなりの負担をかけながら、某編集部に電話をかけ、編集長に取り次いでもらった。我ながらいい度胸である。電話口であらすじを説明し、「おもしろいから」と力説して原稿を送った。その後が長かった。編集長はとても忙しい方で、まず読んでいただくのに3ヶ月くらいかかった。恐れながら、失礼にならないように何度かお願いの電話もかけた。ようやく一部に目を通していただき、コメントもいただいて、それを元にして手を入れた。あまりの長さゆえに結局最後まで目を通してはいただけなかったが、連絡を取っていても、本当に多忙な方だということがひしひしと感じられたので、精一杯の時間を割いていただいたのだということはわかっていた。
問題は2度目のコメントであった。電話でというのを押し切って、直接会うことにこだわったのは私だ。まだ幼稚園に通っていた海のことを友人に頼み、なんとか上京する時間を作った。編集部のあるビルの一階にある喫茶店。今では懐かしいくらいタバコ臭いその空間で、今まで電話でしか話したことのなかったその方と向かい合っていた。
そのときいただいたコメントが、私の息の根を止めた。すごくけなされたとか、そういうのではない。むしろ特定のシーンや、文章はほめていただいた。私は彼のコメントに応えようとしたのだけれど、彼が何を求めているのかほんとうには理解できなかったのだ。別に見放されたわけでもない。書き直せば、また目を通してくださったに違いない。けれどそのとき何かの予感がした。私にはこの要求は満たせないだろうという。私は最後に、今まで渡した原稿は処分していただいてかまわない、と言い残してそこを出た。小説の完成からおよそ1年がたった、夏を思わせる暑い日であった。
「書き直す前に構成をたてて、まず僕に見せてください」
それがその人のいったことだ。もっともなことだと思うし、私もなんとかそうしてみようと試みた。プロットの見直しという奴である。パズルのピースをつくるようにして全体を分け、あたらしい部品を入れてまた再構成する、それだけのことだと思っていた。ところが私にとって、その作業は苦痛きわまりなかった。私はその物語と一体になりすぎていて、どうしても切り分けることができなかった。すなわち、必要な伏線と不必要な伏線、必要なキャラと不必要なキャラ、そういうものを分け、切って捨てることがどうしてもできなかったのである。考えようとすると頭が拒否する。当時の日記にはそのとまどいがこんな風に書いてある。
「ありもしない3本目の手で、ありもしない背中をかけ、といわれているようで、どうしたらいいのかさっぱりわかりません。」
そうこうしているうちに事態がまた変わってしまった。「海にどうしても弟妹をつくりたい計画」の結果、私はあっさり妊娠した。さらに友人を通じて、新しくできたスタジオで、定期的にワークショップをやらないかという(願ってもない)お誘いもうけた。これらのことがきっかけとなって、私は自分にとってもうひとつの源である「肉体による表現」に戻り、「鬼子」はそのまま闇の中に取り残された。
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長い間夢見ていたことが現実になる瞬間があるものだ。そして今、私はそういう時間の中にいる。
以前ブログでも紹介した本に「狼と駆ける女たち」がある。私が狼と縁の深い人間であることはWhy a wolf runs(狼はなぜ走るのか)で触れたが、この本と出会ったときもたいそうな衝撃だった。奥付は1998年8月30日。海が二才を迎えようとしている夏の終わり。
私はかなり煮詰まっていた、と思う。一年間の育児休業の後、職場復帰するはずだったお約束を海が「大アトピー星人」になったことで破ってしまう結果になった。そうして訪れた、医者と公園通いの日々。加えて慣れない同居の日々。憂さを晴らすようにして「勝手にオキナワン」を書き散らしてはいたが、自分が本当に何をしたいのかは皆目つかめていなかった。
「狼…」の最初の一行をここにしるす。
「野生の生物と野生の女は、ともに絶滅に瀕した種族です」
まさにそのとおり、このとき私は絶滅しかけていたのだ。この本の正式な書名
『狼と駆ける女たち―「野生の女」元型の神話と物語』に表されている「野生の女」とは「女に本来そなわっている本能的な自己」の擬人化である、と著者は書いている。砂漠を歩いた後、泉に出会った人のように、私はその本を飲みほした。
明けて1999年は創造的な年であった。私は自分の内なる「野生の女」の痕跡を求めて、連作小説「樹の女」三部作を書き、公の場に応募してみたりもした。これは実らなかったが、同時にカリフォルニアの記録をノートからパソコンに移しこむ作業を開始する。2001年に出版された「魂にささげるダンス」に向けての道のりが始まりつつあった。幸運に恵まれ出版に至る経緯は、最新号の「ポラン通信」に載せた。そのうちブログにもアップするのでお楽しみに。そして2002年には帰国後、最初のワークショップ。2003年には友人のスタジオに腰を据え、連続ワークショップを試みる。
この好調期は二つの出来事によって幕を閉じる。一つは第二子、森の出産だが、この出産は肉体的な意味で最高の体験だった。森が生まれてワークショップはできなくなったが、かわりに、絵本や素話の世界に目を開かされたり、冒険あそび場に出会い、関わることができた。人生丸ごとを考えてみれば、こんな楽しい時期はなく、忙しいながらも充実した毎日であった。
けれどその裏で私はじっとりと腐りかけていた。私の創造性に刺さったトゲから、静かに膿んでいったのだ。トゲが刺さったのは、忘れもしない2002年の初夏。刺さった場所は私が密かに蓄えた秘密の部屋。
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