おはなしのたまご

聖地訪問

「わたしたちにとってのブランドは、エルメスやグッチじゃなくて、福○館や○波よね」とかつて読み聞かせの師匠は語った。

 

同様に、語り手にとっての聖地は幾つかあって、時間に縛られている身にはあこがれの的だ。そのひとつ、銀座にある「教文館 子どもの本のみせ ナルニア国」を初めて訪れる機会を得た。きっかけは海・森コンビが、この三連休にふたりだけでわたしの実家に雪を見に行くことになったからだ。余裕のない日程だったから、朝早く動いた。東京駅で子どもたちの乗った新幹線を見送ったのは9時半前。私は10数年ぶりに銀座に向かった。目的地は松屋の斜め向かいにある子どもの本の店。

 

わかるかな、と思ったけれど、道は何となく覚えていた。昨年末に有楽町西武は閉店した。片翼が死んでいるマリオンの中をそっと通り抜けると、すでに映画館には人が並んでいる。開いている店がほとんどない銀座の通りをウィンドウショッピングをしながら歩く。バブル期のほろ苦い思い出が蘇る。

 

あっという間に教文館のビルは見つかった。もちろん10時前なので、まだ店は開いていない。読みかけの本を手に裏通りのスタバに入る。お客はあきれるくらい外国人が多い。ラテにたっぷりシナモンをかけて、入口に近いスツールに座り、ページを開く。ラテの味を覚えたのはカリフォルニアでだった。あの時もよくこうしてカフェに座り本を読んでいた。最近は…記憶にないくらい久しぶりだ。

 

子どもたちを送る道中にと思って選んだ本はもうすぐ終わる。帰りに読むための本はもう何を買うか決めてある。それが読みたさに、いささか冗長な展開の長編を強引に読み終える。ラスト近くの展開は、かつて好きだったあのひとらしかったが、こんなに長い必要があるのか? 自戒を含めた感想。

 

気がつくと10時半近い。あわてて目的地へ向かう。松屋の前はよく通って、このビルの存在も知ってはいたが、一度も入ったことはない。教文館は本来キリスト教関係の出版社で、売り子として担当だったわたしには馴染み深かったが、それが逆に足を遠ざけさせた。10年以上前の自分が見ていた光景は、いまとどれほど違っていたことか。

 

階段を上り、一般書の並んでいる二階を通り抜ける。買うはずの本が棚にあることをチェックし、エレベーターに向かう。銀座にまだ残っている年代を経たビルで、内装が丁寧で少し古めかしい。6階まで上ると、そこが「ナルニア国」だった。入口ではナルニアホールで開催中の「瀬川康夫・追悼展」に合わせて、瀬川さんのイラストの入った本がずらりと並べてある。ため息が出るくらい美しい。

 

端から棚を見る。初めはヤングアダルト。図書館でしか見たことのない古ぼけた本の新品がずらりと並んでいる。この本、まだ流通していたの? というような。元書店員から見ると、うらやましいほど贅沢な品揃え。これは初めて見る、という本があまりないのは、自分のどん欲さを褒めるべきか、あきれるべきか。

 

ここに来たひとつの目的は、もうひとつの聖地、中野にある「東京子ども図書館」の出版物が手に取ってみられるからだ。その中の「おはなしのろうそく」という小冊子は、お話を語るときになくてはならないもの。現在20冊を超え、順次刊行中。欲しい、全部、欲しい。けれど一冊、一冊は薄いとはいえ、これを全部買うには…。

 

気がつくと12時を回っていた。足腰もそうだが、血糖値が極限まで消費されて、わたしはガス欠状態。何しろ朝食6時前。脳がもう廻らない。けれど、ここまで来たんだ。必ず何か買って帰るぞ!

 

散々迷ったすえ、「おはなしのろうそく」のうち、2話以上やるつもりの2冊をようやく選び出した。それとおまけの一冊。これはいずれ、報告。

 

とても感じのいい店員さんと会話を交わし、帰る前にもう一周。想像がつくだろうけど、こういうときに限って目は買うべき本を見つけてしまう。昨年夏に出たばかりの岩波文庫の新刊。藤沢にだってあるだろう、というのは理性の声。でも、わたしはその場で購入した。どうしてもそれを帰りの電車で読みたくなったのだ。それはわたしの好きな翻訳者、金原瑞人さんが編集と訳を勤めたホラー短編集「八月の暑さの中で」。

 

意外?

 

小学生のころ、星新一にはまって以来、わたしは短編をぱくぱく食べた。特に切れ味のよい、ひねった短編が大好きだった。サキ、フレドリック・ブラウン、ロアルド・ダール,…。この短編集には以上三者の作品がすべて収められていて、それがすべて金原さんの新訳、そしてまだ読んだことのない作品も、とても、とてもおもしろそうだったのだ…。

 

もう一度、店員さんと会話を交わし(彼女はなんと神奈川県の出身だった)、今度は階段で二階へ。初めから決めていたもう一冊,箱根駅伝の話、三浦しをんの「風が強く吹いている」(新潮文庫)を買って帰る。日比谷公園でエネルギー補給の後、そのままJR新橋駅まで歩き、東海道線に乗って帰路につく。

 

いやあ、豪遊(豪遊に見えないでしょうけど)したなあ。こころの豪遊。

 

短編集、おもしろかったです。ホラーと切なさは紙一重。ぜひ、読んでみてください。

八月の暑さのなかで――ホラー短編集 (岩波少年文庫) Book 八月の暑さのなかで――ホラー短編集 (岩波少年文庫)

販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

現在読破中。これもおもしろい。

風が強く吹いている (新潮文庫 み 34-8) Book 風が強く吹いている (新潮文庫 み 34-8)

著者:三浦 しをん
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ボラ納め

昨日で今年のボランティアはすべて終わった。「仕事納め」ならぬ、「ボラ納め」である。

どこまでが「ボランティア」で、どこからが「私事」なのか、難しいところではあるが、一応「必ずしも知り合いでない不特定多数の人のために、無償かほとんど無償に近い謝金で」何かすることを「ボランティア」と呼んでいる。わたしの関わっているボランティアには大きく分けて三種類ある。

ひとつは「冒険遊び場」

二つ目は「読み聞かせ」

そして三つ目が今年から加わった「子どもと遊ぶ」である。

それとは別に、自分好みのテーマで固定したメンバーとやっている「私的な集まり」が二種類。義母に「家にいない」と言われても反論のできないスケジュールでうごく毎日である。

ボランティアには「報酬」はほとんど無い、が「報い」はある。

それは自分が関わることで何かが変わっていくことであり、いつもその効果を引き起こせるわけではないが、そうなると無性に嬉しい。

逆に、やってもやっても、「報い」が実感できないと、続けていくことはかなり厳しいモノになる。そういう意味では今年の「ボラ年末」には手応えがあった。

仲間たちと、某学童保育で読み聞かせをするようになってから、1年半が過ぎた。学童保育で読み聞かせをすることは、図書館でのそれとかなり違う。それは「読み聞かせを聞きたくて集まってきた」か、いる場所で「選択権なしに読み聞かせが始まった」か,の違いによるところが大きいと思う。

教室での読み聞かせはどうなんだ、と言われるかもしれないが、教室は先生の影響力が強く、子どもは言うことを聞くことが慣習になっている。それに比べて学童はいわば放課後の生活空間であり、おやつも出るし、ぼけっとしても、遊んでもいい。だから、読み聞かせだって、聞かなくてもいいのだ。

そこに乗り込んで、絵本を読み、お話をする。興味が持てなければ、目は宙をさまよい、下手すれば遊びに行ってしまう。言うなれば真剣勝負だ! ある意味でこんなおもしろいものはない。

絵本を選び抜き、気迫でお話をし、さあどうだ、と勝負する。努力の甲斐あって、楽しみにしてくれる子どもたちも増えたが、興味の持てない子どもがその周りで騒ぐのまでは止められない。

さて12月、クリスマスも近いある日、わたしたちは今年最後の読み聞かせにでかけた。本当は一人一人にささやかなプレゼントを渡したかった。けれど、総人数を聞いてちょっとめげた。かわりにキャンドルを用意した。もちろんお伺いを立ててから。これが本来「おはなしのたまご」、そして大畑先生のスタイルだ。

火がついた瞬間、子どもたちの目が炎に流れた。火は美しい。そして心の奥に働きかける。それはわたしたち人類が共有する古い古い記憶につながっている。大畑先生が本物のろうそくにこだわる理由は、やはりあるのだ。

最初は相方が読み手。「まる まる まる」という参加型の絵本に続いて、「あかがいちばん」。これは女の子たちの心をグッとつかんだ。ところが、やはり遅れて「帰ってきた」高学年の子の話し声がうるさい。次はお話だ。今回のお話は何が何でも聞いて欲しい。そこでわたしはその子たちに「頼んで」みた。

「お話を聞いて欲しいからちょっと声を小さくしてくれない?」って。

さて、交代。お話は「こびととくつや」。実はこの話は今年、三回目。クリスマス時期に間に合わせたくて、無理矢理覚え、実践をこなしながらつかんできた。そのすべてをぶつける。やはり絵がないと注意がそれてしまう子、炎から目が離せない子も何人かはいた。だけど、お姉さんたちの話し声は気にならないレベルに落ちている。

「こびととくつや」のお話は単純だ。心がけはいいのに貧乏になってしまったくつやが、最後の皮を夜たっておいたら、翌朝には靴が出来上がっている。そういうことが続き、くつやは再びお金持ちになる。

ある日、くつやとおかみさんは、夜こっそり起きていて、はだかのこびとたちが靴を縫っていることを知る。二人は感謝の印にちいさな服と靴を用意する。こびとたちは喜び、服と靴を身につけると、踊りながら去っていく。こびとたちは二度と戻ってこないが、くつやは一生幸せに暮らす。

それだけなんだけどね。

でも、今回は見えた。みんなの目の中におはなしのろうそくが揺れているのが。ずらりと並んだ子どもたちの黒いひとみは、まるでろうそくの炎を映したかのように揺れていたんだ。

帰り際、追いかけっこをしてたお姉ちゃんの肩を叩いて「ありがとね」と言った。

何か、変わる? 変わらない? 

ああ、だから、ボランティアはやめられない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

魂の金貨

また平塚ミヨさんにしてやられた。今日は恒例「図書館をたのしむ会・二宮」の例会に呼んでもらった。二年前、08年の時の記事はブログにもアップしてある。

醸しだす(かもしだす)

去年も伺って、写真まで撮ったのに、アップはしていない。悔しいから写真だけ、今載っけちゃお。

 

  OLYMPUS DIGITAL CAMERA         二宮町「ふるさとの家」。屋根は茅葺きではないけれど…。

 

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA         囲炉裏端と床の間。左手に見える椅子と机が語り手の席。

 

そもそも…今朝、南部線で人身事故があり、平塚さんの乗った電車が一時間遅れた。おはなし会も一時間遅れて始まった。「図書館をたのしむ会」の皆さんが語り終わったとき、時計は一時を回っていた。時間を惜しみ、手遊びを間にはさんだだけで、平塚ミヨさんのお話が始まった。ファージョンの「町角のジム」より「ジムの誕生日」。その時点で、平塚さんの意図に気がついた人がどれだけいたのか、私にはわからない。

 

ジムはとある街の町角に座っているおじいさんだ。ジムの持っているのは若い頃船乗りだったときのたくさんの思い出話と友だち。ジムの着ている服はみんな誰かからもらったもの。そのジムがもうすぐ誕生日を迎える。それも80才の誕生日だ。

 

平塚さんが今年80才になられたことを、聞いたばかりだった。80才の人が語る、80才になろうとするおじいさんの話。

 

運の悪いことにジムの誕生日は八月十日。みんなバカンスや田舎にでかけてしまって、街には誰もいない。ジムはひとりぼっち。けれどもその時、一番仲のよい男の子が、休暇を過ごしていた場所からジムのところにやってくる。そして、貝殻を差し出す。それはジムがその男の子の誕生日にプレゼントしたもので、それを耳に当てると海の音が聞こえる。それは「誕生日にもらって一番うれしいものは何か」と聞かれたジムが「海が見たい」と答えたことへの、男の子からのプレゼントだった。

 

ここでもういけない。先ほどからウルウルしていた私の目尻から、ぽろりと涙が一粒転げ落ちた。その涙はわたしの頬骨のカーブを伝い、ぽとりとひざの上に落っこちた。それからもう一粒…。私は自分の頬骨のカーブがこんなに長いことをはじめて知った。

 

男の子はお父さんの車でジムを海に連れて行く。ジムは全身で「海の音を聞き、海を見、海の匂いをかぐ」

 

平塚さんのお話はこれでおしまいだった。ぐうぐう鳴り続けるみんなのお腹を案じてのことだったに違いない。

 

私はまたもや、ノックアウト、完全KOである。

 

来年、平塚さんはもうこの話を語らないかもしれない。だって81才になっているから。

 

なぜ、80才の人が80才の誕生日を迎える話をすることがこんなに特別なのだろう。

 

それはたぶん、それが「今ここでしか起こらないことだから」。そして「今ここでしか起こらないこと」が本当の魂の金貨になる。

 

精一杯考えよう。今ここで、私の手は正しいところに置かれているか、私の足は正しい地面をふんでいるか。今ここで語るべき言葉を語っているか。いるべき人と一緒にいるのか。

 

全神経をピカピカに研ぎすまし、今ここでしかできないことをやる。そうしない人生など、考えられない。

 

誰か他の人でもできることに、やすやすと自分を明け渡さないように。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

共鳴り(ともなり)

おはなしを語る最初のステップは、テキストを覚えることだ。4年前、大畑真由美さんの「ストーリーテリング講座」を受けたときのわたしたちが、まず挑んだのはこの点だった。暗記など、学生生活が終わってからはとんとしていない。古びた脳を活性化させることから始めなければならなかった。

講座が終わり、その中のメンバーで「おはなしのたまご」を立ちあげた。いろいろな事情で抜けたメンバーも、新たに加わったメンバーもいて、だいたい10人前後でつづいている。

最初は覚えただけで誇らしく、聞いてくれる仲間がいることがありがたかった。だが、そのうちに何かが足りないことに気づく。大畑さんが講座の時にこう言っていた。「覚えてから、何かが起こる」(この言葉通りじゃないんですけど…)と。けれど、その「何か」の起こし方がわからない。

そのうちに海のクラスで(まあ、クラスの状態も悪かったのだけれど)、おはなしはちゃんと覚えているのだけれど、どうも子どもたちに届いているような気がしない、という経験を一回した。

「自分のなかでしっかりイメージを結ぶこと」が大切だ、とは「湘南絵本…」の方で言われたことだ。「ラプンツェル」で言えば、「9メートルの高さの塔」とか「王子が塔を見上げているとき、どこにたっているのか」という細部までしっかりイメージすること。

だが、最終的な変化を引き起こしたのは、前回も触れたが、「おはなしの置き方」だ。あの経験を経て思うのは、「おはなしをしっかり覚える」とか「イメージをしっかり結ぶ」とかは、自分の「中」の努力だということだ。それはそれで大切なのは言うまでもないが、それだけに注意が向いてしまうと「自分」の枠が堅くなる。つまり「中」と「外」の間に膜ができる。この膜が堅くなりすぎると「いくら努力しても、どうも届かない」という経験をすることになる。

これは「おはなし」だけのことではない。

「わたしはこんなに努力しているのに」

「わたしはこんなにがんばっているのに」

というジレンマに陥ったときも、たぶん同じだ。

「おはなし」を自分と相手の「間」に置こうとするとき、

わたしはもっと柔らかく、

相手を信頼し、

向こう端を持ってもらうことに喜びを感じている。

わたしは、おはなしを語ることによって何かを差し出すが、

と同時に、

向こう端から、おはなしを通じて何かが流れ込んでくる。

こういう現象に名前があるかどうかは知らない。

わたしの頭に浮かんできたのは

「共鳴り(ともなり)」

という一語で、普通は電話機の共鳴現象に使う言葉らしい。

わたしなりの出典は、漫画の「カムイ伝」。

synchronicity  (シンクロニシティ)より、肌身にあう。

世界と「共鳴り」を起こす準備がだんだんと整っていくようだ。

それを信じて…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

熊っ皮

さる土砂降りの3月6日、「おはなしのたまご」の発表会が行われた。一年に一度くらいは、自分の好きなお話を思いっきり語りたい、というわたしたちの願いが今年も実現したのである。

普段は、聞いてくれる子どもの年齢にあわせているし、時間的な制限もあるので、選ぶお話は自然と制限される。私なぞは、娘が6年生なのをいいことに、かなり長い話もするのだが、それでも15分が限界だ。その限界を初めて超えてみようと思わせてくれたのが、グリムの昔話「熊の皮をきた男」だった。時間はおよそ20分。筋立ては、戦争が終わり、食いつめた兵隊が、悪魔と取引をする話。その中にロマンスあり、ユーモアありで、文句なしにおもしろい。

もともとは海のクラスで語ることを目的に覚えた。ここ数年、クラスは変わっても、学級の読み聞かせの音頭は、私が毎年とっていたのだが、昨年から各休みの前に、少し長い「スペシャルお話タイム」を入れてもらえるようにお願いし、それがかなっている。その時間にやろうというのだ。

今年、海のクラスは、落ち着かない。クラス自体は持ち上がりだったが、担任が替わった。失礼だが、小学校は初めての方で、明らかに力不足である。そのことは自覚なさっている。努力はされているけれど、改善の兆しはわずかだ。悪いけど、授業よりお話しの時間の方がよっぽど静かだ、というのは別に自画自賛でもなんでもなく、ただの事実。子どもは好きで騒いでいるのではない。授業がおもしろくない。学びたい、という意欲の行き場がない。だから自分たちでおもしろいことを作り出そうとする。その結果の「荒れ」だ。だから少しでもおもしろい、充実した時間を彼らに届けたかった。その一念で覚えたようなものだ。

人間、思い込めば何とかなる。今、カレンダーで確認したら昨年の12月11日、私は教室で「熊っ皮」を語っている。たまごのおはなし会では、2度目の語りということになるのだが、実はその間にひとつの「質的転換」があった。

1月末に、また別のサークル「湘南絵本とおはなしの会」の例会があり、そこで「ラプンツェル」を語ったときのことだ。ここは地元でも老舗のおはなしサークルのひとつで、先輩方が熱心に指導してくださる。私なんぞは幼稚園のお迎えで、いつも途中退席という情けない会員なのだが、自分の語りの質をもう一つ上げたいという思いで、この春から参加させていただいている。

そして、それは起こった。その「変質」がどのように起こったか、それを説明するのは難しい。けれども、これはおはなしだけでなく、すべての生きた営みにとって重要なことだと思うので、あえて言葉にしてみる。

以前は「わたし」が「おはなし」を「聞き手」に語っていた。それを「おはなし」を「わたし」と「聞き手」の間に「置く」ようにした。

これだけのことだ。

結局、ダンスでも、パフォーマンスでも同じだったよなあ、と今にして思い出す。元のところに戻ったんだなあ、と。

それを思い出させてくれた諸先輩方に、ここで改めて感謝いたします。

この事象の解説については、次のコンテンツをお待ちください。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

ブレーメンへ行こう(おまけ)

昨日は「ブレーメンの音楽隊」で遊んできました。これは「詩とおはなしで遊ぶ会」という集まりです。文字通り、大人と子どもがものがたりを題材にして遊びます。持ち回りでアイデアを出し、みんなでそれをふくらませます。今回はたまたま「ブレーメン」続きでした。

やっと人形たちをお見せすることができます。動物たち。

ドロボウさん。ごちそうを前にして決めポーズ

この間、見る側だった森は、今日はドロボウをやると朝から宣言。日曜日の朝(雨は降っていましたけどね)、静かな住宅街を通り抜けながらセリフの練習。

「それにして親分、昨日の盗みはうまくいきましたねえ」などと大声で繰り返すものだから、海がはらはらしていました。その海も、卒業文集の下書きができていなくて、劇遊びに来るか、家で作文を書いているかの二者択一を迫ったら、わたしの予想とは裏腹に劇遊びをえらびました。

そうか、むりやり連れて行っているわけじゃなかったんだ、と少しうれしくなったわたしでした。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

ブレーメンへいこう!

12月6日(土)、香川公民館で「人形劇フェスティバル」が行われた。私たちの小さなサークル「おはなしのたまご」も昨年から出演させていただいている。前回はその場にいられなかったのだが、仲間たちは手遊びや、簡単なおはなしをしたらしい。ただ、やはり人形劇にくる子たちはおはなしを聞きに来る子より年齢が低めで、たいそう騒がしいなかでの上演になったということは聞いた。正式に話し合ったわけではないけれど、「あの場でおはなしをするのは無理かなあ=今年は出演しない」とみんな何となく思っていた。

ところが、である。「夏のおはなし会」でやった「ブレーメンの音楽隊」という人形劇が、公民館の担当の目にとまってしまった。で、ふたたび出演することになった。実は当日までは、いくつか大変なことがあった。でもそれは省く。伝えたいのは別のことだからだ。

もともと「ブレーメン」の人形たちは、仲間のひとりが自宅で作ったものだ。身近にある材料と羊毛で作られていて、そもそもの目的は、こういった人形を子どもたちと一緒に作ることだったという。であるから作りは簡便。でもそのシンプルさがとても愛らしい。あやつり人形であることも、愛らしさにひと役買っている。少し動かし方に注意を払ってやれば、動きがとても自然で、表情がある。

「人形劇フェスティバル」に出演するのは全部で4組。午後1時からの開演なのだが、会場は午前中から開いていて、そこで他グループとの最終的な打ち合わせをすることになっていた。他のグループは私たちより出演歴が長い。会場の使い方にも慣れていて、新入りの私たちがおろおろするなか、着実に準備を進めている。完成型ではないが、どこもセットがすごい。人形6体と樹と、空き箱で作った家しかない私たち…。場違いなんじゃないかい…。そんな思いもよぎり、ますます身の置き所がない。

私たちの出番は3番目。どきどきしながら他のグループを見る。ふたつ目のグループがおわったところでいったん休憩が入り、そのあとすぐが私たちの出番である。休憩中に舞台をセットし、そのままついたての影でスタンバイ。ナレーション役だけが舞台の横に立ち、導入に手遊びなどをする。ついたての影は狭い。人形を操るのは4匹+ドロボウふたり=全部で6人。ロバ、犬、猫、ニワトリの順に、ひとりひとり登場する。

わたしはドロボウ役だったから、出番はかなり後。ついたての影で、舞台の進行に耳を澄ます余裕はある。ロバ役がでる。そのとたん、思う。

「いい声じゃん」

その疲れたとぼけっぷりがなんともいい。それだけではない。わたしの耳は沈黙を聞き取れる便利な耳だ。ロバが台詞を言うたびに、背後の沈黙が少しずつ深まっていく。それがわかる。見ている人がぐっと心を傾けてくれたときにだけ、訪れるあの沈黙だ。

犬、猫、ニワトリがでる。やはり思う。

「なりきってるなあ」

だてに読み聞かせをしてきたわけじゃない。みんな、届ける声をちゃんと持っている。届ける声はイメージをかきたてる声だ。押しつける声ではない。そして4匹がそろい、ドロボウの出番となる。わたしは相棒に合図をし、ついたての前に回る。そのとたん、わたしの目にはいったのは、ひろ~い会場の中におかれた、細長いテーブルの前にぎっしり集まる子どもたちの姿であった。会場においてみると、私たちの用意したテーブルは低く、後ろの子は見えないんじゃないかと心配していた。いまそれが余計な心配だったとわかった。

子どもたちはほんとうに人形たちに心を沿わせていた。4匹がたじろぐところでは「こわいんだあ」の声が漏れた。自分が演じているときはさすがに見る余裕はなかったが、ドロボウのやりとりにクスクスッとなっていたこどもがいた、とあとで友人が話してくれた。というわけで、劇は大成功。上演前は、「私たちはおはなしサークルなんだから、もうこんなに(上演するまでいろいろな意味で大変な)劇なんかやりたくない」と思っていたわたしの気持ちもかなり収まった。

そして久しぶりに思い出し、かつ実感した。劇にせよ、おはなしにせよ、その醍醐味は「届け手」と「受け手」が一体となって作り出すあの空間にあるってことを。それは画面の前でひとり鑑賞する経験からは、絶対味わえないものだ(映画はまたちょっとちがう。映画館という空間を共有することでなり立つものがあり、だからこれだけ家庭用DVDが発達しても、映画館に行く意味はある)。20代の頃、小劇場にはまり、下北沢をうろついていた時代の空気をちょいと思い出した。ただ、劇はハードウェア的に大変で、資本も関係する。抱え込むものの重たさがなじめなく、わたしはパフォーマンスへと傾斜していくことになるのだが…。

もう一つ思い出したものがある。あの子どもたちの群れるさまは、紙芝居やさんの周りに集まっていたあの頃の子どもたちとそっくりだった。そう、わたしはかろうじてその経験がある世代だ。

ああ、やっぱりおはなし会はいい。この身ひとつとわずかな装備で、子どもたちを幻惑する(修行中ですが)。私たちは、この時代に残されたさすらいの旅芸人の末裔なのかもしれないと、あらためて思った。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

醸しだす(かもしだす)

古民家でおはなしを聞く機会があった。二宮の「図書館をたのしむ会」の企画にお邪魔させていただいたのだ。会自体へのお誘いは二度目だが、大人のためのおはなし会なので、子連れではいけない。昨年までは森がいた。一年待って、待望の初参加。

駅まで迎えに来てくださったHさんの車で、会場の「ふるさとの家」へ。急な道を高架下まで登ると、その家があった。梅雨空の下、せせらぎの音が聞こえる庭を通り、縁側の横を入ると土間がひろがっている。土間には台所が続いていて、無造作に羽釜がおかれていた。まるで今でも煮炊きをしているかのようだ。私たちはいろりの間にあがった。そこはすでにおはなしのしつらえがなされていて、木目調のすてきな椅子がおかれている。床の間の横の三角スペースが、本日の聖なる場所だ。

発足してまだ三,四年の「おはなしのたまご」に引き替え、二宮の会はすでに長く活動を続けられている。メンバーの年齢も若い方からベテランの方まで幅広い。こういう機会を持てたのも、共通のメンバーであるHさんが働きかけてくださったからで、ついこの間は「たまご」の方に何人かのメンバーがいらしてくださったばかりだ。濃い飴色をした板の間に敷かれた座布団が、聞き手の席。いずれは崩すであろう足も、このときはきちんとひざの下。

私たちの帰りの電車は決まっていた。わたしは幼稚園のお迎えがあるし、他にも用事のある人がいる。だからその時間まで精一杯おはなしを堪能した。日本の昔話、グリムの昔話、創作もの、そしてイタリアやその他の国のおはなし…。語り手の個性とおはなしが、重なり合い、溶けあい、それはそれはすてきな時間だった。雨の中に立つその家が、まるで世界のすべてであるように。古い家にはおはなしを抱きとめる力がある。

そんな家で「ふるやのもり」を聞く幸せを想像できますか? 

二宮の会の皆さんが師と仰ぐ、平塚ミヨさんのお話が始まったのは、私たちが帰りの時間をそろそろ気にしはじめたときだ。すぐれた語り手というのは間違いなく魔法使いだということを、またわたしは思い知らされた。彼らは状況をすべて味方につけてしまう。「ふるやのもり」に続いて平塚ミヨさんがされた、アンデルセンの創作「おとっつぁんのすることはすべていい」の途中で席を立つことは、私たちにはとうていできなかった。それはまるでアンデルセンが書いたものとは思えなかった。ミヨさんはアンデルセンの言葉を一文字残さず食べ、それをすっかり自分のものにしてただしゃべっている、そういうふうに聞こえた。お話と人がここまで融合したものを聞いた体験は初めてだった。

なんともいえない余韻が、身体の中で響いていた。私は自分がとても若く、熟成していないワインのようだと感じていた。覚えて、ただ語るだけの遙か先にあるものを、垣間見たような気がしたからだ。人とお話が溶けあって、醸しだす何か。私たちは決して時間と空間に縛られてはいない、と感じさせてくれるもの。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

森のおはなし会

Ya47 11月3日(土)、森で小さなおはなし会があった。公民館祭りの一環として、小さな公民館の、小さな森で開かれたおはなし会だ。当日は同じ市の大きな公園で、大きなおまつりがあった日だ。昨日までのぐずついた天気を吹き飛ばすかのような秋晴れに恵まれた、おまつり日和。私たちが関わってから2年が過ぎようとしている。

「私たち」とは香川公民館を主体として活動するサークル「おはなしのたまご」のメンバーだ。

「おはなしのたまご」とは以前の記事、つきのひかりのとらとーら

にもでてきた大畑真由美さんの講座から生まれた、小さな小さな「おはなしサークル」の名前だ。大畑さんの所属しているサークルの名前が「おはなしころりん」。そこから「ころりん」と産まれた「たまご」という設定である。

敷地内に雑木林を持つ公民館は、市内でも珍しい。2年前、初めて子どもたちの前で話をしたのも、この雑木林だった。あのときのおはなしは「へっぷりよめさん」。つっかかりこそしなかったものの(したっけ)、冷や汗ものの初舞台である。風通しのよい場所なので、よほど心してかからないと声も聞こえにくい。それ以来、おはなし会は毎年続いているけれど、メンバーが交代で話すので、私自身は2年ぶりだ。今回のおはなしは「かちかち山」。実はこの話、「夏のおはなし会」に予定されていたのだが、そのとき珍しく森が熱を出し、中止になっていたのをメンバーが秋に移してくれたのだ。師の人柄そのままに、本当に心のよい仲間たちだ。

私が大畑さんの講座を受け、絵本の勉強を始めたのは、まだ森が1才の時だ。講座の時こそ保育がつくものの、そのあとのサークルはいつも、いつも森と一緒だった。思えば勉強会に向かう自転車の上で、「かあか、今日行くところ、つまらない」とつぶやいた森をぶっ叩いたこともある。来年からようやく幼稚園に通うので、連れ歩くのももう少し。寂しい気もするが、(興奮しすぎて)おはなしの最中でもかまわず、サークルのお母さんたちにじゃれつき、飛びかかっていく我が子に限界を感じている近頃だ。

当日の準備は満点だった。海を森のお供に配置し、ふたりにお弁当を持たせ、その上お祭りでは大盤振る舞い。フランクフルトを買い、水飴を持たせ、といたれり、つくせりである。森ももう4才。これだけすれば、少なくともおはなしをしている間くらいはおとなしくしてくれるだろう、と私は思っていた。ところが…。

その日最初のおはなしは「だめといわれてひっこむな」だった。間に絵本や手遊びが入り、いよいよ出番がやってきた。私もひとつ手遊びをやったのだが、途中からどうも背中がもぞもぞする。「やばい!」と私は思った。何が起こったか背中でわかったのである。海と一緒に座っておはなしを聞いているはずの森が、いつの間にか私の座っているいすに登り、がたがたやっている。手遊びは終わった。「どうしよう…」と私は思った。しかしここで森をしかったら、せっかく集中してきた雰囲気が台無しになる。「ええい、このまま背中に乗せたままで…」と私は度胸を決めた。しかしそのとき信じられないことがおこった。背中から声が聞こえたのだ。

「かちかちやま」と森は言った。そして、そのままいすを降りた。かあかのおはなしを聞くために。

そうかあ、これを言うために来たのかあ、と私は思わずほろりとした。そして、おはなしはつつがなく終わった。

だからこの文章の題名は「森(もり)のおはなし会」ではなく「森(しん)のおはなし会」と読むのだよ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

つきのひかりのとらとーら

月のきれいな季節に、こんな絵本はいかがでしょうか。

「つきのひかりのとらとーら」(福武書店:現ベネッセコーポレーション)

内容は下記で見ることができます。

http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=28318

けれども現在、この本は品切れで、図書館でしか見ることはできません。

始まりは、私の敬愛する「日本のやまんばさん」の一人である大畑真由美さんの絵本の講座でした。大畑さんがその絵本を取り上げ、読み始めたとき、私はふわっと絵本の中に吸い込まれていきました。夜の美しさに見せられ、とらとーらの毛皮に頬をこすりつけ、そして…読み終わったときには、涙さえ浮かべていたかもしれません。

その本の何がそんなに心をとらえたのでしょう。

大畑さんの声の力? もちろん。

絵本の絵、それ自体の美しさ? もちろん。

でもそれ以上に私を感動させたのは、ずっと探していたものがその中にあったからです。それは「とらとーら」に象徴されるところの、少女の中にある野生の力です。

ジェシカを乗せて世界中を飛び回ったあと、部屋に帰ってきたとらとーらはジェシカに聞きます。

「弟を食べてあげようか?」

ジェシカはなんと答えるのでしょうか。

自分の力を充分に自覚したものは、他者にどう振る舞うのでしょうか。

ジェシカはもう、弟のせいでお母さんにいつも怒られているかわいそうな女の子ではないのです。とらとーらの瞳の中に映ったジェシカの顔は、誇らしげですらあるのです。

どんな人の中にも野生の力は潜んでいますが、女の子の中のそれは、おとしめられ、鍵をかけられ、しまわれていることが多いように思います。そしてその繋がりを見いださない限り、女性は自分の力を信じ切れないような気がします。

私自身の性(さが)は狼ですが、この絵本のトラにはとても惹かれます。

そこでお願いです。この絵本の復刊を望むサイトを「復刊ドットコム」の中に発見しました。上記のリンク先がそうです。そこで投票をしていただければ、復刊につながる可能性があります。ただし投票するためには、登録が必要です。これは金銭には関わりのない登録ですので、お心が動いた方は検討していただけるとうれしいです。

もちろん図書館でこの本を手に取ってみてくださるだけでもうれしいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)