共鳴り(ともなり)
おはなしを語る最初のステップは、テキストを覚えることだ。4年前、大畑真由美さんの「ストーリーテリング講座」を受けたときのわたしたちが、まず挑んだのはこの点だった。暗記など、学生生活が終わってからはとんとしていない。古びた脳を活性化させることから始めなければならなかった。
講座が終わり、その中のメンバーで「おはなしのたまご」を立ちあげた。いろいろな事情で抜けたメンバーも、新たに加わったメンバーもいて、だいたい10人前後でつづいている。
最初は覚えただけで誇らしく、聞いてくれる仲間がいることがありがたかった。だが、そのうちに何かが足りないことに気づく。大畑さんが講座の時にこう言っていた。「覚えてから、何かが起こる」(この言葉通りじゃないんですけど…)と。けれど、その「何か」の起こし方がわからない。
そのうちに海のクラスで(まあ、クラスの状態も悪かったのだけれど)、おはなしはちゃんと覚えているのだけれど、どうも子どもたちに届いているような気がしない、という経験を一回した。
「自分のなかでしっかりイメージを結ぶこと」が大切だ、とは「湘南絵本…」の方で言われたことだ。「ラプンツェル」で言えば、「9メートルの高さの塔」とか「王子が塔を見上げているとき、どこにたっているのか」という細部までしっかりイメージすること。
だが、最終的な変化を引き起こしたのは、前回も触れたが、「おはなしの置き方」だ。あの経験を経て思うのは、「おはなしをしっかり覚える」とか「イメージをしっかり結ぶ」とかは、自分の「中」の努力だということだ。それはそれで大切なのは言うまでもないが、それだけに注意が向いてしまうと「自分」の枠が堅くなる。つまり「中」と「外」の間に膜ができる。この膜が堅くなりすぎると「いくら努力しても、どうも届かない」という経験をすることになる。
これは「おはなし」だけのことではない。
「わたしはこんなに努力しているのに」
「わたしはこんなにがんばっているのに」
というジレンマに陥ったときも、たぶん同じだ。
「おはなし」を自分と相手の「間」に置こうとするとき、
わたしはもっと柔らかく、
相手を信頼し、
向こう端を持ってもらうことに喜びを感じている。
わたしは、おはなしを語ることによって何かを差し出すが、
と同時に、
向こう端から、おはなしを通じて何かが流れ込んでくる。
こういう現象に名前があるかどうかは知らない。
わたしの頭に浮かんできたのは
「共鳴り(ともなり)」
という一語で、普通は電話機の共鳴現象に使う言葉らしい。
わたしなりの出典は、漫画の「カムイ伝」。
synchronicity (シンクロニシティ)より、肌身にあう。
世界と「共鳴り」を起こす準備がだんだんと整っていくようだ。
それを信じて…。
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11月3日(土)、森で小さなおはなし会があった。公民館祭りの一環として、小さな公民館の、小さな森で開かれたおはなし会だ。当日は同じ市の大きな公園で、大きなおまつりがあった日だ。昨日までのぐずついた天気を吹き飛ばすかのような秋晴れに恵まれた、おまつり日和。私たちが関わってから2年が過ぎようとしている。
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