家を洗う4
我が身を振り返らなければならなくなったのは、義母だけではなかった。和室の隅には私たちの「とりあえず使わないもの」も置かれていたのだ。相棒はあくまで、床に何も置かないことを主張した。その中には段ボールに入ったままの自著の在庫などもあり、私はそれをどこかに動かさなければならなかった。
どこかに、といっても家中すでにいっぱいである。思えば和室は便利な「ブラック・ボックス」だった。いらないものはとりあえず、そこに押し込んでおけばいい。
「あそこも片付ければ何とかなる」
「とにかく片端からどんどん片付ける」
という相棒の厳しい方針により、私は寝室のクローゼットを片付けることになった。着るかも(いつか? 私が? 海が?)と思っていた洋服も処分した。カセットテープも大量に捨てた。和室から始まった掃除の波は、いつしか家中を巻き込んでいた。
相棒と暮らし始めてからちょうど15年。こびりついてしまった暮らしの垢を掻きだして、新しい波をむかえる。海も中学生。育てるだけの暮らしから、旅立つことも視野に入れた暮らしに切り替えるちょうどいい潮時。
一連の出来事の中で何よりうれしかったのは、以前本棚から間引いたまま、和室に起きっぱなしになっていた本が処分できたことだ。ほとんどがハードカバーの人文書、間引かれたとはいえ、相棒にとっては大切な本だった。どうせ某B-OFFに持っていっても引き取ってもらえないのはわかっていたから、勇気を出して他の古本屋を回った。はじめの2軒の対応は予想したとおりで、打診したときに難しいのはいらないといわれたので、わざわざ文庫中心に選んでいったのだが、それでもジュース代にしかならなかった。
折しも翌日は古紙の日。引き取ってもらえなかった本を縛って出しておいたら、おじさんが来てあさっていた。どのような形にせよ、求められたのがうれしくて思わず声をかける。
「あのぉ」
おじさんがびくっとする。
「好きなだけ持っていっていいので、ちゃんと縛っておいてくださいね」
後で見たら、どうしてこれを?という本が抜けていて、おまけにちゃんと縛ってなかった。他人のニーズというものはわからない。
最後に二袋の本が残った。中でも厳選したハードカバーばかり。これをどこに持っていくのか。実は私には当てがあった。以前から目をつけていた某古書店。商店街の中ではなく、ただの道沿いにポツンとたっている。一度も入ったことはないのだが、珍しそうな本が並んでいて、開店したときからつぶれるのは時間の問題だと思っていた。ところがつぶれなかった。それどころか数年前に移転し、以前よりわずかに駅に近く、わずかに広い場所に店を構えた。問題はしょっちゅう店が閉まっていることで、重い本を運んでいって無駄足じゃやるせないので、持っていくのに二の足を踏んでいた。
その日、私は朝から機嫌が悪かった。原因はわかっていた。本を持っていきたくないのだ。断られるのがイヤなのだ。内面の声を無視しきれなくなった私はひとつ保険をかけた。(本当に滅多にしないのだが)気のおけない友人とランチの約束を取り付けたのだ。友人に電話をかける前、内面の子供によく説いて聞かせた。
「今日でないかもしれないよ。今日(彼女の)時間が空いているとは限らない。でも必ず約束するから」
私は運がよかった。私たちは今日の12時に会うことを約束した。そして、私は自転車の荷台に本を積んだ。
古書店の中は想像以上だった。ハトロン紙をかけた本がびっしりと並び、床にも本が積み上げてあった。懐かしい神田の風景。おじさんは私が持っていった本を積み替え、積み替えしながら眺めている。私は壁の本に目をやりながら、その様子を横目で見ていた。しばらくしておじさんが言った。
「…いい本ですね」
「当たり前だ」と私はこころの中で叫んだ。一級品の人文書売り場に並んでいた本だぞ。
おじさんは思いきったように値段を言った。私は言い値でいいです、といった。
ランチに使い込みたいという誘惑を退けて、本を売ったお金を相棒の机の上においた。端数はくれるかな、という期待もあった。帰ってきた相棒は、私の話を聞くと一言
「捨てないでよかった…」とつぶやいた。
結局、分け前は請求しなかった。この出来事が予想以上に相棒の何かを癒したのを感じたからだ。薄っぺらな資本の論理の底で、何か別の流れが途切れずに続いている。その流れを信じてみようと思った。
(続く)
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

最近のコメント