これは森の声さんの「ポラン通信」に乗せた最後のコラムです。「ポラン通信」自体もこの号で最後でした。書いたのは去年の8月。だからイメージが夏っぽいです。ブログに載せるのを単純に忘れていたのですが、とある友人からわたしの「少年時代の話」を聞きたいといわれ、思い出しました。「こっしぃ's コラム」を初めて読んでお気にめした方は「カテゴリー」欄をクリックしてみてください。他の文章がお読みになれます。
私の目の前に青い裁縫箱がある。たくさんのすり傷がついた、古ぼけたプラスチックの裁縫箱だ。ウン十年前、小学校で裁縫箱を購入することになったとき、子どもたちに選択の余地はなかった。女の子はピンク、男の子は青、と決まっていたのである。私はそのピンクがいやだった。TVアニメ「ルパン三世」に心酔し、次元大介になりたいと思っていた私のお気に入りの服装は、カーキ色のボタンダウンにベルボトムジーンズ。次元大介にピンクの裁縫箱は似合わない。私は押しつけられた選択肢を頑として受け入れなかった。それで事態がどう進んだのか、残念ながらよく覚えていない。おそらく親が折れ、学校も仕方なく認めた、というところだろうか。確実なのは目の前に青い裁縫箱があることで、私はこの箱をみるたび、自分の意志を曲げなかった11歳の自分をほめたたえてやりたい気持ちになる。
とはいえ、こういう子どもは大人には歓迎されない。低学年の頃は授業中ほとんど発言しなかったし、高学年になっても「明るい、さわやかな、意欲がある」という言葉とは縁がなかった。(大嫌いな)読書感想文の題材に、選んではいけないとされていた「SF小説」をわざと選んで書いてみたり、(同じく大嫌いな)意見文を書かせれば「読書感想文を廃止しよう」という内容だったり…、とにかく機会さえあれば反抗していた。
「反抗の仕組み」をご存じだろうか。パターンはいくつかある。ひとつはAといわれたら、もう一つの選択肢Bを選ぶというものだ。ピンクといわれたら青を選んだ11歳の私のように。もうひとつはおなじくAといわれたら、Aでないことをするというものだ。「SF小説を選ぶな」といわれたら、「SF小説を選ぶ」のである。けれど、どちらの場合もAという最初の条件なしでは成り立たない。「反抗」とは一見自由な行為に見えるけれど、最初の条件に縛られているという意味では必ずしも自由ではない。けれど、育つ側からみればそれは必要な行為であり、親や教師の価値基準から自分の世界へ移っていくための強烈なひと蹴りに他ならない。反対に育てる側からみた場合、もし子どもに「反抗」されているのなら、それは喜ぶべきことだ。ひとつには、子どもはあなたを「蹴るに足る」基準として信頼しているということだし、ふたつには、その子は今自分の足で立とうとしているに違いないからだ。
問題はその「反抗」の先にある世界だ。プールで泳いでいるときのことを考えてほしいのだが、ここでもスタートは反動を利用する。壁を蹴ると、身体は思いのほか早く進む。けれど、壁を利用できるのは最初のひと蹴りだけだ。後は自分の力で泳いでいかなければならない。「どこへ行くか」という問題もある。現実のプールは泳ぐ方向が決まっていたり、線が引かれていたりする。一方、「現実」というプールには、いろいろな線が勝手気ままにひかれていたり、前は正しかったがいまは???という線もあったりして、たどっていくととんでもないことになったりする。それに「現実」というプールはすぐ「海」へとつながっている。線もない、方向を指示してくれる人もいない、もしかしたら危険もあるかもしれない、そんな「海」だ。そういう(ああ、もしかしたら危険きわまりない)「海」へ泳ぎだして行くであろうわが子に、あなたは何を準備してあげられるのだろうか。浮き輪? ライフジャケット? 酸素ボンベ? 羅針盤? それとも宝の地図? けれど、浮き輪やライフジャケットは浮かんでいるのにはいいけれど、泳ぐには邪魔だ。酸素ボンベは重すぎるし、羅針盤は狂ってしまうことがある。宝の地図だって、昔は確かにそこに埋まっていたかもしれないけど、いまはどうだかわからない。たとえあなたがそこで、お宝を見つけたことがあったとしてもだ。
たったひとつおすすめがある。それは映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」で海賊ジャック・スパロウが持っている羅針盤、北を指さないかわりに「持ち主の望んでいるものを指す」羅針盤で、しかもそれは身体の中に仕込むことができる。逆に言えば、それを持たずに「海」を泳ぐということは、かなり危険なことでもある。荒海に乗り出すことを恐れたり、ひとの泳ぐ方向ばかりを気にしたり、道を失い、誰かにしがみついて、もろともに沈んでしまったりすることだってある。
「仕込む」と書いたが、それは本来ひとりひとりに必ず備わっているものだと私は思う。だから「仕込む」というよりは「育てる」。もっというなら「育つのを邪魔しない」…。
だって、自分が何をしたいか迷っている赤ちゃんなんていないでしょう! 赤ん坊にはしたいことがある。それは確か。おっぱいを吸うことだったり、抱かれたいということだったり、その他どうしてもこれを握りたいとか、大人には理解できないことだったりするけど。
子どもの中に羅針盤があることを認めてしまえば、育児はずっと楽になる。たとえ最初は欲望のままに揺れる未熟なものだとしても、そのぶれにつきあっていくことで、子どもは成長する。そしてやがては自分ひとりで、その羅針盤を頼りに「海」へと乗り出していくはずだ。誤解させないように強調しておくと、羅針盤の「ぶれ」とつきあうということは、「子どもの好きにさせる」こととはずいぶん違う。
まずは受け手(親や教師)の「感度」と、それを「言葉にする力」が必要になってくる。身体に仕込まれているといっても、羅針盤は目に見えないし、子どもがそれを自覚するようになるのはずっと後だ。だから、その子の羅針盤がどこを指しているのかを、最初に感じてあげるのが受け手の役割だ。そして、大人がそれを感じ、言葉や行動でサポートすることによって、子どもは自分の羅針盤の向きを(思春期までかけて)徐々に理解していく。
また「want(欲求)」と「need(必然)」を区別することは重要だ。「~したい」にも二種類あって、「want」は後から目覚める。赤ちゃんはほとんど「need」で生きているので、ある意味、満たすのもたやすいし、速やかに満たしてあげる必要がある。けれども「want」はすべて満たす必要はなく、むしろその背後に潜む「need」を察知することによって、解消することが可能だ。たとえば、膝にすがりついてアメをねだってばかりいる子どもは、もしかしたら外で自由に遊びたいのかもしれない。「want」に振り回されないことは大切だ。もちろんそれを無視していいわけではないけれど…。
そして子どもの羅針盤が育っていく課程でおそらく一番肝心なのは、身近に自分の羅針盤を活用している大人がいることではないか、と私は思う。この羅針盤に従って人生を送っていると、ひとから奇異な目で見られることも結構ある。何しろ「北を指さない」ので、のぞき込んだとたん、ぎょっとされることも多いのだ。もちろん、自分の羅針盤の向きを自覚していれば、時には北を指すふりだってしていいと思う。でも(私に限らず)、自分の羅針盤を理解しているひとは本質的なところでぶれない。そういう大人が身近にいると、ぶれやすい羅針盤を持つ成長途中の人間は、安心して角度の違いをぶつけることができる(この場合、角度は違っていいし、違って当たり前だ)。
そう結局、チェックポイントは子どもではなく、大人の側にある。多くの場合、大人の「want」と「need」は複雑に絡み合っている。別にいつもそれを一致させることが可能だとも、いいとも思わない。むしろ、そのズレこそが「ものがたり」を生み出していく原動力だ。ただその乖離(かいり)や、ねじれに気づき、認めることができれば自分と他人の複雑さをもっと許せるようになるだろう。
青い裁縫箱は、いま娘の海の手元にある。私の「反抗」の記念ともいえる青い箱は、遠い日にその「反抗」を許してくれた誰かの存在を暗示している。それを海に手渡すことによって、私は何かを未来に向けて放つ。これから泳ぎ出そうとするすべてのひとに。
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