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2008年11月

続・どんぐりの家(賢治の楽校三)

「どんぐりの家」は古い木造校舎である。もちろん内部は宿泊施設として改造され、お風呂もあるのだが、建物の枠組みはいじられていない。なが~い廊下や、つるつるの階段はまるで子どもたちが走りまわるためにあるみたいで、いつでも誰かがドタドタやっていた。八ヶ月の森も最後の年に、ここでハイハイさせてもらった。

校舎を出て森の中の小径をたどると、渓流沿いにキャンプ場がある。そのキャンプファイヤーをするための広場で、毎年賢治の楽校の劇は行われた。わたしはこの森と渓流が何よりも大好きだった。もっともそれはわたしだけではない。多くの子どもたちが到着して荷物を放り出すと、すぐ渓流にむかった。こどもだけで川へ入ってはいけないことになっていたから、もちろんわたしも。なかでもこたえられないのは、泊まった翌朝、昆虫採りの子どもたちが眠い目をこすりながらちょうど布団にもぐり込むころ、入れ替わりに誰もいない川に行くことだ。幸い、うちの子どもたちはよく眠るし、相部屋だったから泣けば誰かが知らせてくれる。子育て中の念願、「こどもをおいてどこかへ行く」がこんなにやすやすと実現できる場所はほかにはない。

そこで朝の気を浴びる。渓流で水をすくい、顔を洗う。それだけの儀式で魂の奥がすっと澄む。古びた森の、苔むした樹と岩の気配。広葉樹の繊細な樹影が形作る渓流のトンネル。神座(かみざ)ということばが頭に浮かぶ。昔々、神は確かにこんな森に降りたったのだろう。

もう行けない場所のことを描くとき、わたしは魂のまるごとをかけて、その場所を言霊で顕現させようとする。だから多少大げさだな、と思われた方もいるかもしれない。でも、わたしにとってはそんな場所だったのだ。

あの場所がなくなってしまってとても悲しい。

以前、「賢治の楽校」のことを考えたときに、思い当たったことばがある。それは「魂の実家」ということばだ。わたしの父は海が生まれる直前に他界している。それに加え、ちょうど母が体調を崩し、下手をすると生まれ育った家がなくなるかもしれないという考えに至ったときのことだ。わたしは考えた。

「生まれ育った家がなくなって、帰省ができなくなったとしても、『どんぐりの家』があるじゃあないか。ここに集う人は血縁ではないけれど、きっと魂でつながっている。一年に一度、ここで出会うことで、ここは『魂の実家』になる」と。

その場所がなくなってしまうとは、このときのわたしには想像もし得なかったのだ。(続く)

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どんぐりの家(賢治の楽校・二)

JR東海道線国府津駅から大雄山線に乗り換え、終点まで。そこからさらにバスに揺られること二十分あまり。そのようにして私たちは導了尊のバス停に降りたった。圧倒的な杉林のなかだ。「賢治の楽校」の宿舎である「どんぐりの家」は、ここからさらにひとつ山を越えたところにあるという。

「登るぞ」とわたしは海に言った。いまは思春期の坂道を登っている海も、当時はまだ4才。真っ赤なドラえもんのリュックを背負った、かわいい幼稚園の年中さんである。かたやわたしは久しぶりに押し入れから取りだしたアメリカ滞在時のバックパックに、荷物をコロコロに詰め込んでの登坂だ。あたりには誰もいない。どうせバスでだれかと一緒になるさ、とろくに地図も見てきていないわたしには、この道が正しいのかどうか今ひとつ確信もない。だが母親を信じることしか知らない娘につぶつぶな瞳で見つめられては、「道に迷っているかも…」というそぶりなど見せるわけにはいかない(ちょっと八年まえの海ちゃん、美化しすぎかなあ)。

いいぞ、とわたしは思った。こういうワケのわからない状況は大好きだ。身体じゅうの末端神経が、正しい道を求めていっせいに花開くのを久々に感じる。ワケのわからなさの中に道を探り、ワケのわからなさを超えて道を開く。正しく、これが「生き甲斐」ってやつだ。

初回のこのとき、この道は魔法の道だった。巨大な杉が柱のように生えている道は、しみ出した水と、堆積した杉っ葉で足場がいいとはいえない。ときおり海の足が止まる。道が急なのと心細いのとで、泣きそうにも見える。杉は巨きい。海は小さい。巨大な存在とともにあるとき、人の可愛さはいや増す。きりがないと思われた登り道にもようやく終わりが訪れる。つぎは下り。下って、下って、下る。山道を下りきった先は、コンクリートの道。

そこから風景が一転する。強い日ざしに焼かれた道には、影が黒々と形を描く。その影をたどるように、カーブの続く道を歩いていく。それでも真夏というオーブンで焦がされて、背中が汗だくになったころ、川の音が聞こえてくる。道とひと続きになっている小さな橋を渡ると、目のまえはもう「どんぐりの家」だ。(続く)

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いもほり日和

11月23日(日)は冒険あそび場でした。ちょっと遅めのいもほりをして、みんなで焼きました。今年のお芋はムラサキイモでしたよ。そのあとも畑の草取りなどして、土にまみれた一日でした。

柿のくし刺し

うまそ~、柿の棒刺し。これは名案。

二十日大根、ならぬ四十日大根。

右が畑のおじさん。いつもありがとうございます。

カブを取りまくようにびっしり生えているのはハコベです。

ハコベを運べ~、なんてね。

次回は1月24日(土)です。たき火の楽しい季節かな。

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賢治の楽校

この週末に「少年の森」で開かれた「賢治の楽校」に行ってきた。「賢治の楽校」とのつきあいは長い。海が年中の時から参加してきたので、数えたら八年目になる。その間、森を産んだが妊娠中、出産後とも休まなかった。だから森は10ヶ月の時から、参加しているということになる。いや、正しく言えばおなかの中にいたときからだ。

「賢治の楽校」とは友人が長年続けてきた宮沢賢治の劇遊びを主体とする集まりで、今年の様子は友人のブログに載っている。詳細はそちらを見てほしい。

ブログ「森へ行こう」

http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/200811160000/

八年の間には人も変わり、場所さえも変わった。けれど変わらないことがひとつあり、それが私をこの場に参加させ続けている。もしかしたらまた数回に分かれてしまうかもしれないけれど、ひとつの節目である今年に、それを改めて考えてみたい。

「集団の創造性」という言葉をひとつ出してみる。

人の集まりは昔からきらいだった。おぼえているかぎり、幼稚園のころからだ。大好きだったかわいい女の子を、意地悪なあの子にかっさらわれてしまった記憶だけが、やけに鮮明に残っている。小学校から高校にかけては、勉強という逃げ場があったから、少しましではあったものの、特に女の子の集団はとにかく苦手だった。

この苦手意識の根本は、ようするに集団の表面と深層が違うことにある。表向きは仲のいいあのことあの子が、実は陰口を言いあっているなど日常茶飯で、自分に関して言えば、たいてい尊敬だかねたみだかわからないものが一緒くたになってやって来て、たいそう疲れた。幸い(というか)高校を卒業してからは、なんだか壊れた(ドロップアウトした? 規格外の?)集団にばかりいたもので、しばらくそういう「集団の縛り」からは無縁だった。ただ、いま考えてみると、なんだか世界の片隅で余暇をとっていた気がするのは、「いま」という地点から遙か遠い昔をながめているからかもしれない。それなりに、のたうち回っていたんだけどね。

その「集団」観が変わったのは、やはりアンナのところへいってからで、これも言葉を換えて何度も書いているが、「それぞれが自分であるほど全体が豊かになる」体験を徹底的にしたからだ、と思う。文化的な違いはあるだろう。「西洋個人主義をベースとしたカリフォルニア風ニューエイジ」とでもまとめてみようか。そこでは自分のなかの「怒り」や「悲しみ」でさえ、抜けものにされることはなかったのである。

で、帰国。着陸地点は悪くはなかった。相棒と出会い、海も生まれた。そして自著の出版を契機として、「賢治の楽校」を主催している森の声さんと出会う。この辺の事情は以下の記事にまとめてある。

乳房をもった男(オンブレ・コン・ペチヨス)

最初の出会いで、すでに「賢治…」のチラシはもらっていたような気がする。なんだかんだいっても、やっぱり息苦しかったのだろう。行き先もわからないまま、わたしはもがき、出会ってすぐの森の声さんの誘いに易々と乗った。そして4才の海をつれて「賢治の楽校」に参加するのである。

ああ、やっぱり続く、ですね。

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終わった…(後半)

きれいに染めあがった糸があって、石が包めてもそれだけではペンダントにならない。この空白を埋めてくれたのが、海であった。久しぶりの登場だから解説しておくと、海とは小学六年生の娘で、この間までミサンガ編みにこっていたというキャリアがある。想像しやすいように説明しておくと、石包みの後、糸は8本になり、それを左右4本ずつ分けて処理する。問題はそれからだったのだが、右に4本、左に4本の糸をどう絡めたのか、いつの間にかなにやらりっばな組み紐ができている。

「こんなんでどうかな…」

いつの間にか、親のできないことができる娘になっている。こんな時ほど、育って(育てて、じゃないのよね。)よかったと思うことはない。海ちゃん、偉い!

しかし、性格なのであろう、海の組み紐はしっかりしすぎていて、そのまま最後まで編むには重すぎる。そこで二人並んで初めての「4つ編み」(三つ編みの一本多い版)に取り組むことになる。

今回のペンダント作りで一番おもしろかったのは、このあたりだ。この年になって、子どもと一緒に何か新しいことを覚えるということはそうない。子どもには勝てないって? イヤイヤそんなことはない。こういうときは私も子ども。二人で頭をひねりながら、夢中になって覚えた。

これでできあがり? 実はまだだ。自分で使うなら、ここまででじゅうぶんだが、売り物としては留め具部分を何とかしたい。しかもあんまり資金を投入せずにだ。

サイズ調整がきく、一番簡単なペンダントの結び方は、お互いの端をもう片方のひもに結びつけることだ。すると、二人の人間がたがいに手首を握るような形で、留め具になる。これはやってみた。ところがひもが4本どうしなので結び目がゴロゴロし、あまり見かけがよくない。そこでまたテキストをひっくり返し、そこにでていた編み方を一部ちょうだいする。テキストどおりに編むことにはあまり興味を覚えないのだが、パクリは得意。端末を重ねて、別のひもで平編みする。この平編みするひもにだけ、ちょっぴりお金をかけた。そのとき購入した革ひももどきの色が強すぎる、と後で海からおしかりを受けたが、私としてはうまくいったと思う。

写真でお見せできればよかったのだが、あいにく作ったものはすべて売ってしまった。そのうち自分のために作ったら、そのときは忘れずに写真に撮っておこう。

さて、結果的にはうまくいったペンダント作りなのだが、ひとつ大きな問題があった。それはおよそひと月というものペンダントのことしか考えなかった結果、文章を書こうという欲求がわかなくなってしまったことだ。これは大、大、大問題だ。

バザーを終えた後、考えた。不器用でよかったな、とつくづく私は思った。手先が器用で、何でも作れる人のことをうらやましいと思っていたが、その分の私の創造性は文章となって流れ出している(と思う)。時間も創造性も無限にはない(天才はどうか知らないが…)。だったら自分にしかできないことをやろう。それがたとえ石を削るようなかすかな試みであっても。

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終わった…(前編)  

「終わった。なにもかもが」というのは、漫画「あしたのジョー」で力石徹がジョーを倒した後、最後にはく台詞です。

私の場合は何が終わったかというと、幼稚園のバザーでした。たかがバザー、されどバザー、まさにこのために2週間以上ブログの更新ができませんでした。恐るべしバザー。再会の手始めに、なぜそのようなことになったか、少しじっくりと書いてみましょう。


我が園のバザーは園庭では行わない。昨年からの試みではあるが、中央公園の「ふれあい祭り」に出店するという形で行われる。やらなくてはならない、というものでもないと聞かされていた。あくまでも保護者の意志に任されている、という設定。今年もこの設定は、くつがえされることはなかった。ただ明確な話し合いの場があったわけではない

内容はリサイクル品と手作り品。私にとってのネックはなんといっても、この「手作り品」。「からだしごと」は得意でも「てしごと」は…、と思っていた。「手」も「からだ」の一部なんだけどね。

だったら手を出さなければいいじゃないか、と思う。でも何となく、くやしい。この負けず嫌いのせいでいつも「どつぼ」にはまる。

悩んだ末に思いついたのが、前から興味のあった「ネット編み」。いずれ冒険あそび場でハンモックをつくるときにも役に立つだろう技術だから、覚えておいて損はない。いままで作ったこともない、作り方もいまから調べる。バザーまで約ひと月半。普通、この時点でゼロからスタートする人は滅多にいないと思う。

幸い、友人の貸してくれたヘンプ編みの本の中に「石包みのブレスレット」が乗っていた。これを見て石の包み方をマスターする。ここでようやくイメージが固まってくる。石包みをトップにしてペンダントを作ろう!

つぎの問題は材料費が出ないことであった。まあ、バザーで、基本的には持ち出しなのだがらかまわないのだけれど、低空飛行で生活をしているものにとっては余分な費用をひねり出すのも楽ではない。日頃から「てしごと」好きな家庭なら、転がっているであろう手芸材料ひとつ、うちにはない。そこでまた冒険あそび場アイテムの活躍。私は「たこ糸」を手に取った。しかしこのまま編んだのでは、いかにも「たこ糸」である。果たしてこんなものを人がお金を出して買うだろうか?

ここで、能登半島の妹から届いた荷物に、大粒の栗が入っていたのをふと思い出す。そしてそれに、偶然、友人から聞いた会話の一節がシンクロする。

「栗渋で染めてもきれいなんですよぉ」

なぜ、いま、それを思い出してしまったのだろう…。私の無意識は、時々私に酷だ。

というわけで突然栗を「渋皮煮」にすることを思い立つ。もちろん、やったことはない。ネットで調べる。で、やる。

幸い、一番の難関だと思っていた、「栗の渋皮を傷つけないようにして鬼皮だけをむく」プロセスは、勤勉な小学生である娘とその友人によって解決された。そうして栗は「渋皮煮」にされ、濃い色の汁が残る。で、染める。

とてもきれいなピンク色。うれしい、うれしい、やっぱりうれしい。

いっておくけど、別にこんな苦労しなく経っていいのである。てしごとができないからって、誰も何も責めたりはしない。けれども、一度動き出した私の「物づくり機能」は、行き着くところまで行かないと止まらない。(続く)

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